【べらぼう】実際に存在した花魁!後に山東京伝(古川雄大)の妻となる「菊園(望海風斗)」の哀しい最期 (2/3ページ)

Japaaan

扇屋(楼主は扇屋宇右衛門)のお抱え遊女で、京伝とは天明5年(1785年)ごろから交流していました。

※以前、劇中で蔦重が京伝を説得するため「扇屋、花扇(と引き合わせてあげるから)!」と言ったのに対して、京伝は「もう敵娼(あいかた)いますんで」と断っています。この敵娼とは菊園のことだったのでしょう(同じ妓楼内で別の遊女と通じるのはご法度)。

やがて寛政元年(1789年)に菊園は年季明けとなりますが、彼女は花扇(はなおおぎ)花魁の番頭新造(秘書的存在)として扇屋に残りました。

恐らく行くあてがなかった……というより、意中の京伝がいつまでも煮え切らない態度をとっていたからかも知れません。

飽きられてしまったのではないようで、お客として来てはくれるけど、このままずっとこのままなのでしょうか。

他の出会いを待とうにも、お客の間では「菊園は京伝先生の馴染みだから」という評判で、敬遠して寄りつきません。

半ば飼い殺し状態となりつつあった菊園を見かねて、扇屋宇右衛門は半ば実力行使に及びました。京伝の元へ、菊園を送りつけたのです。

「なぁ先生。無理強いする筋でもないのだけれど、菊園もいい年だし、そろそろ……」

さすがの京伝も、ここまでされては断り切れません。とうとう年貢の納め時と観念して、菊園を妻に迎えたのです。

時に寛政2年(1790年)2月、京伝30歳(宝暦11・1761年生まれ)/菊園27歳でした。

幸せは永く続かず

結婚した菊園は源氏名から「お菊」と名を改め、京伝の妻として献身的に尽くしたそうです。

夫婦仲は円満で、まあ舅や姑にもよく尽くしたことから、大層喜ばれました。

しかし永年にわたる遊女勤めからお菊の身体は蝕まれていたようです。

京伝との結婚からわずか3年後の寛政5年(1793年)、お菊は血道(ちのみち。子宮がんと推測される)で世を去ってしまいました。

苦痛に悶絶するお菊に対して、京伝はとても見ていられないとばかり、吉原遊郭へ逃げ込みます。

いよいよお菊が危篤に陥っても、京伝は最期を看取る勇気が出ません。

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