江戸時代の百姓一揆はなぜ“再び暴力化”したのか?「天明の飢饉」と田沼意次による改革の代償

Japaaan

江戸時代の百姓一揆はなぜ“再び暴力化”したのか?「天明の飢饉」と田沼意次による改革の代償

再暴力化する一揆

戦国時代の血で血を洗う殺し合いの時代の経験を経て、江戸時代の太平の世は実現されました。

太平の世とはつまり「暴力で解決するのは割に合わない」とみんなが気付く時代のことです。

「暴力で解決は割に合わない!」江戸時代の百姓一揆で武器が使われなかった合理的すぎる理由

それゆえ、島原一揆による支配階級と農民の苛烈な殺し合いを経て、百姓一揆の作法はより穏健なものへと変わっていきました。また支配階級側も、暴力による弾圧ではなく「仁政」によって農民たちを統率しようとします。

天草四郎の像

しかし時代が下り、幕藩体制が崩れると、百姓一揆の作法もまた揺らいでいきました。研究では、その画期として二つの時期が指摘されています。

画期となったのは一八世紀後半です。この時期には商品経済の発達にともなって百姓一揆が広域的になりました。

また、打ちこわしや焼き打ちなど脅迫の文言を含む廻状によって動員がかけられるようになりました。逃散が増え、強訴の際得物として竹槍が持ち出されはじめたといいます。

竹槍で殺害が行われたケースは、江戸時代を通じて二例にとどまるものの、それまでに見られなかった武器が持ち出された点で、従来の作法とは異なる形態に変化したといえるでしょう。

作法の逸脱

一方、一九世紀に画期を見出す研究者もいます。島原天草一揆以降に起きた一四三〇件の一揆のうち、武器の携行は一五件、家屋への放火は一四件ありましたが、そのうち前者は一四件、後者は一二件が、一九世紀に起きていました。

約一四〇〇件のうち武器の携行や放火が十数件しか見られないこと自体、仁政イデオロギーに基づく支配体制の強靭さ、および一揆の作法の強固さをうかがわせます。

それでも、放火や武器の携行が一九世紀に集中していることには大きな意味があるといえるでしょう。

つまり近世の初期に暴力的だった一揆は、いったんは仁政イデオロギーに基づく非暴力的なものへと定式化されましたが、一八世紀後半あたりから百姓一揆が変質しはじめ、一八世紀末から一九世紀初頭以降、作法を逸脱する事例が現れた、といえそうです。

それでは、なぜ一九世紀に作法の逸脱が始まったのでしょうか。

その理由として、一八世紀に商品経済が進展し、それにともなって貧富の格差が拡大するという事態に対して、幕藩領主が有効な政策を打ち出せなかったことが挙げられます。

一七八一年(天明元)に田沼意次が幕府の実権を握り、重商主義の政策をとったことはよく知られています。

田沼意次(Wikipediaより)

独占的な商工業者の組合を株仲間として公認し、運上・冥加といった間接税を課すことで、幕府の収入源を確保しようとしたのです。

この政策によって、物流が活発化し、特に江戸・大坂などの大都市に向けて商品作物が多く出荷されるようになりました。

しかしその一方で、大都市の経済圏からはずれた村々は貧困化し、大都市へと人が流れてしまうなど、荒廃が進みました。

機能不全の「仁政」に喝

さらに一七八二年(天明二)から、天明の飢饉が起きます。このときの幕府の対応は、江戸を集中的に救おうとするものであり、地方の農村への対応は十分ではありませんでした。

これは前述した「仁政」のあり方とは異なるものでした。百姓を救済するはずの為政者が、その責務を果たさなかったことになります。

これらの要因によって、百姓一揆の作法の前提であった仁政イデオロギー自体が機能不全に陥ったのです。

こうして、百姓身分をアピールして仁政を求めるのとは異なる実力行使が、数少ないながらも起こりはじめたのでしょう。

ただし地域的な違いもあり、機内では強訴・打ちこわしなどの非合法な手段を用いず、訴願だけに徹していたケースも多くあります。

それとは対照的に、関東では百姓一揆の作法を大きく踏み外した非合法の行為が起こりはじめたのです。

賄賂政治家として知られる田沼意次の実像に迫る!従来の負のイメージが覆る驚愕の学説を紹介

参考資料:藤野裕子『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代(中公新書・2020/8/20)』

画像:photoAC,Wikipedia

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「江戸時代の百姓一揆はなぜ“再び暴力化”したのか?「天明の飢饉」と田沼意次による改革の代償」のページです。デイリーニュースオンラインは、百姓一揆天明の飢饉田沼意次江戸時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る