滅びゆく名門の誇り…反骨の貴族・大伴家持が『万葉集』に託した最後の歌【後編】

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滅びゆく名門の誇り…反骨の貴族・大伴家持が『万葉集』に託した最後の歌【後編】

日本最古の歌集『万葉集』の編纂者と伝えられる大伴家持(おおとものやかもち)。その出自は、神代以来、大王(天皇)家に仕え、親衛隊とも称された軍事貴族・大伴氏である。家持に受け継がれた精神は、常に天皇家の安泰に向けられていた。

彼が生きた奈良時代は、天皇制が成熟する一方で、藤原氏を中心とした権力闘争が激化していた時代でもあった。家持は、ときに一族の暴発をいさめながら、幾度もの政変に翻弄されつつも大伴氏を生き延びさせたのである。

【前編】の記事はこちら↓

「万葉集」編纂者で反骨の貴族・大伴家持の壮絶人生──左遷・密告・そして汚名【前編】

[後編]では、『万葉集』に残された和歌を手がかりに、そんな家持の心情をたどっていく。

大伴家持像(高岡市万葉歴史館)

神代以来の軍事的功績で朝廷に重用される

大伴家持は、父・旅人から受け継いだ反骨精神を胸に、生涯を通じて朝政を独占しようとする藤原氏に抗い続けた

藤原鎌足肖像(菊池容斎画)Wikipedia

もっとも、藤原鎌足以来、中央の権力を握る藤原氏といえども、神代以来、軍事を掌握し、天皇家の親衛隊的立場として大王家を支えてきた大伴氏の軍事的功績を無視することはできなかった。そのため紆余曲折や勢力衰退を経ながらも、大伴氏は奈良時代を通じて朝廷において重きをなし続けたのである。

大伴の家名を後世に存続させることにかける

政争に明け暮れた奈良時代を生きた大伴家持は、しばしば自らの心情を吐露する歌を詠んでいる。

大伴家持(狩野探幽『三十六歌仙額』)Wikipedia

その中でも筆者が「いかにも家持らしい」と感じるのが、756年(天平勝宝8年)の『族(やから)に喩(さと)す歌』と題された長短歌である。

短歌
剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆさやけく 負ひて来にし その名そ

長歌
聞く人の鑒(かがみ)にせむを、惜(あたら)しき清きその名ぞ、
凡(おほろか)に心思ひて、虚言(むなこと)も祖(おや)の名断(た)つな、
大伴の氏(うぢ)と名に負(お)へる、健男(ますらを)の伴(とも)

これは、聖武上皇の崩御に際し、一族の出雲守・大伴古慈斐が淡海三船とともに朝廷を誹謗した罪で捕らえられた時に詠まれたものである。

無論、この事件の背後には藤原仲麻呂の影があった。橘諸兄を失脚させた仲麻呂は、孝謙天皇とその母・光明皇后の権勢を背景に、あらゆる政敵を次々と追い落とそうとしていた。

――「大伴氏は、天孫降臨・神武東征の時代より代々の大王に清き心で仕え、武勲と名望を背負ってきた家柄である。今こそその家名を絶やしてはならぬ」と、家持は叫んだ

この歌を家持の仲麻呂への畏怖とみる説もあるが、そうではあるまい。いかに天皇家に誠心誠意の忠誠を尽くそうとも、否応なく政争に巻き込まれる。その理不尽さを踏まえ、むしろ家持は、一族に対し従来以上の注意深さと深慮をもって行動するよう諭したのである。

この長短歌からうかがえるように、家持の政情分析は鋭敏であった。だが、その杞憂は早くも現実となる。翌年には「橘奈良麻呂の乱」が勃発し、多くの反仲麻呂派の皇族・貴族とともに大伴氏にも累が及び、獄死や流刑に処される者が続出したのである。

ただ、家持の掲げた「清く正しく」という想いは、決して純粋無垢なものではなかった。そもそも大伴氏の全盛期は、家持の生まれるより100年以上も前のことである。

大伴金村『前賢故実』Wikipedia

当時の大伴氏は、大王の最側近として、朝廷における最高位の一つである大連を歴任し、大臣と並ぶ朝廷の双璧を成していた。しかし、継体大王を擁立した大伴金村が外交政策の失策によって失脚すると、その後は物部氏や蘇我氏が台頭し、大伴氏は次第に勢力を失っていくこととなった。

それでも壬申の乱では、大伴馬来田・負吹兄弟の活躍もあって辛うじて公卿を輩出したものの、奈良時代に入り藤原氏が勢力を拡大していく中で、大伴氏の復権は次第に困難となっていった。

藤原氏に幾度となく抗ってきた家持も、やがてはその現実を受け入れざるを得ないとの考えに至っていたことは事実だろう。そうであれば、家持に残された道はただ一つ。これまで以上に純粋に天皇家に忠誠を尽くし、大伴の家名を後世に存続させることだったのである。

『万葉集』の最後を飾る家持の絶唱

大伴家持の歌は、長歌・短歌あわせて473首が『万葉集』に収められている。これは群を抜く多さであり、歌聖とうたわれた柿本人麻呂でさえ、その数は100首に満たない。

大伴家持像と国府跡(高岡市万葉歴史館)

その家持の一首が、『万葉集』全20巻・4516首の掉尾を飾っている。しかもそれは、家持が歌人人生の最後に詠んだ、まさに絶唱とも呼ぶべき一首であった。

759年(天平宝字3年)正月、家持は「橘奈良麻呂の乱」の余波を受け、因幡守に左遷される。その赴任先で迎えた新年、因幡国府における年頭の儀で、彼はこの歌を詠んだのである。

新しき年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)
――「新しい年の初め、初春の今日降る雪のように、良い事も絶え間なく積もり重なっていきますように。」

一族に対して注意深く、かつ深慮をもって行動するよう諭した家持の姿勢は、大伴氏という名門貴族であるがゆえの自負心に支えられていた。

その一方で、新興勢力である藤原氏が我が物顔に朝廷を支配し、ヤマト王権の創設期から大王と歩んできた名門諸氏(大伴氏・物部氏・佐伯氏など)が次々に没落していく状況にあって、家持が最後に詠んだとされるこの歌は、なおいっそう重い意味を帯びているのではないだろうか。

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※参考文献
板野博行著 『眠れないほどおもしろい 万葉集』 三笠書房刊

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