【べらぼう】歌麿の妻・きよの命を奪った瘡毒(梅毒)とはどんな病気?感染者の悲惨な末路と歴史 (3/5ページ)

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日本で梅毒が登場したのは16世紀初頭、戦国時代初期の永正9年(1512年)。コロンブスによってヨーロッパへもたらされてから、およそ20年という早さでした。

戦国武将の中では浅野幸長・加藤清正・前田利長・結城秀康らが梅毒で死亡。性行為によって感染することが経験的に知られていたため、精力旺盛だった徳川家康は遊女や不特定多数の(身元が不明な)女性と交わることを自戒していたと言います。

江戸時代に入ると梅毒はますます猛威を振るい、一説では江戸在住者の梅毒感染者はおよそ半数にも及ぶと言われました。

現代ではペニシリンなどの抗生物質を用いた早期治療で全快するものの、そのような治療法のない当時は命を落としたり、慢性的な後遺障害をもたらしたりしたそうです。

その外見的な症状は劇中にもあった腫瘍や疱瘡など、悪化すると皮膚が崩れたり軟骨炎で鼻が欠け落ちたりする者もいました。

貧しい夜鷹(最下級娼婦)などは鼻が欠け落ちた者も多く、川柳に「鷹の名に お花お千代(お鼻・落ちよ)はきついこと」などと詠まれています。まったく笑いごとじゃありません。

現代も続く梅毒の脅威

梅毒患者の様子(画像:Wikipedia)

ちなみに梅毒という呼び名については、疱瘡がヤマモモ(楊梅)の果実に似ていたために楊梅瘡(ようばいそう)と呼ばれ、それが次第に「瘡毒」「梅毒」となったと言います。

他にも「黴瘡(ばいそう。

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