【べらぼう】蔦重が世に送り出した東洲斎写楽のライバル・歌川豊国とは?気になる勝負の結果は…
看板絵師の喜多川歌麿と疎遠になりつつあった蔦重(蔦屋重三郎)は、新たな看板絵師として東洲斎写楽(※)を売り出すことにしました。
(※)その正体は、能楽師の斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべゑ)説が有力。
写楽のデビューは寛政6年(1794年)5月。背景に黒雲母摺(くろきらずり)をあしらった役者の大首絵28作を一気に放出するという、異例の豪華仕様です。
それだけ蔦重の期待が大きかったのでしょうが、写楽の前に強力なライバルが現れました。
彼の名は歌川豊国(うたがわ とよくに。初代)。写楽とは対照的な画風で役者絵を流行らせ、浮世絵界に大きな影響を与えることになります。
今回はそんな歌川豊国(初代)を紹介。果たして写楽との勝負は、どちらに軍配が上がるのでしょうか。
役者絵や芝居絵の権威に
歌川豊国は明和6年(1769年)、江戸芝神明前三島町(東京都港区)に住む人形師・倉橋五郎兵衛(くらはし ごろべゑ)の子として誕生しました。
本名は倉橋熊吉(くまきち)、のち熊右衛門(くまゑもん)と改名し、やがて一陽斎(いちようさい)と号します。
幼いころから歌川豊春(とよはる。歌川流創始者)に入門し、18歳となった天明6年(1786年)に処女作として絵暦「年始の男女」や「狂歌太郎冠者」の挿絵を発表しました。
天明8年(1788年)に黄表紙『苦者楽元〆(くは らくのもとじめ)』の挿絵を入れたあたりから絵師として本格始動。最晩年の文政7年(1824年)まで絵を描き続けます。
寛政2~3年(1790~1791年)ごろから和泉屋市兵衛(いずみや いちべゑ)のもとで美人画を手がけ、豊春風から鳥居清長(とりい きよなが)や喜多川歌麿の画風を採りこんで独自の画風を確立していきました。
それから「役者舞台之姿絵」はじめ多くの作品を世に描き出し、時代の好みを巧みにとらえることで、役者絵や芝居絵を独占する権威となったのです。
家族は妻と一男一女がおり、放蕩息子の直次郎(なおじろう)は勘当されて版木の彫師となりましたが、父の没後に浮世絵師・歌川豊年(とよとし)として活動しました。
また娘のきんは女流浮世絵師・歌川国花女(くにかめ)として活動しています。
そして文政8年(1825年)1月7日、豊国は57歳で世を去ったのでした。
写楽と豊国、勝負の結果は……?浮世絵界に大きな影響を与えた写楽と豊国。勝負の軍配は、豊国に上がったと言えるでしょう。
役者などのモデルを理想化し、洗練されたスタイルで描き上げた豊国。対する写楽は、良くも悪くもリアリティ重視&個性を強調するスタイルだったのです。
……顔のすまひのくせをよく書いたれど、その艶色を破るにいたりて役者にいまれける……
※筆者不詳『江戸風俗惣まくり』より
【意訳】写楽は顔立ちの特徴をよくとらえていた。しかしそのために見栄えがせず、役者たちから忌み嫌われてしまった。
……これは歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなさせし故、長く世に行はれず一両年に而止ム……
※大田南畝『浮世絵類考』より
【意訳】写楽は歌舞伎役者の似顔絵が巧みであったが、あまりにもリアル過ぎて役者のイメージを損ない、デビューから翌年には引退してしまった。
……お客にしてみれば、贔屓の役者をカッコよく描いてくれなければ、買いたくないのは当然です。
写楽の役者絵は強烈なインパクトを与えつつも人気が出ず、デビューから約10ヶ月(※)で姿を消してしまいました。
(※)寛政6年(1894年)5月〜寛政7年(1895年)1月まで。寛政6年は閏11月があります。
被写体を過剰に理想化せず、ありのままの個性を追求する写楽の画風に、まだ時代が追いついていなかったのかも知れませんね。
終わりに
今回は写楽のライバルとして活躍した歌川豊国について紹介しました。
果たしてNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、どのような闘いが演じられるのでしょうか。
今後続々と巨匠たちが登場するようなので、楽しみにしています!
※参考文献:
小林忠 監修『別冊太陽 浮世絵師列伝』平凡社、2006年1月 飯島虚心『浮世絵師歌川列伝』中公文庫、1993年6月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan