大学山岳部・ワンダーフォーゲル部の歴史を紐解く!その成り立ちと衰退は日本のアルピニズム史と共にあった
日本の「山岳部」の歴史
日本の学生登山には100年以上の歴史があります。その歴史を紐解きつつ、近年の大学山岳部やワンダーフォーゲル部に所属する若者たちは、どのような登山を行なっているのかを見ていきましょう。
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山岳信仰や修行、狩りの為だった「登山」を国民的スポーツにした男・高頭仁兵衛【その1】近年、多くの大学山岳部が創部100周年を迎えています。100年前といえば、時代でいえば大正の終わり頃にあたりますが、その時代に一体何があったのでしょうか?
実は多くの大学山岳部の創部が大正時代~昭和初期の1910~20年代で、特に20年代に集中しています(明治、東大、立教、法政、専修、日大、同志社など)。
学生登山のルーツは、1898(明治31)年に旧制第四高等学校(現・金沢大学)で創設された遠足部だといわれています。
大正初期には旧制の中学・高校・大学で登山を目的としたグループが作られ、1913(大正2)年に一高(東京大学に吸収)山岳会や三高(京都大学に吸収)山岳会、1915(大正4)年に慶應義塾大学山岳会などが設立されました。
草創期の学生登山の転換点は、慶應・槇有恒によるアイガー東山稜初登攀でしょう。
槇は本場のアルピニズムを携えて帰国し、日本に「岩と雪の時代」をもたらします。その最初期の成果が、1922年(大正11)年の慶應学習院合同隊による積雪期槍ヶ岳初登頂でした。
この新たな動きに刺激され、1920年代には明治大学、東京帝大立教大学、日本大学、東京農業大学、法政大学、北海道大学などで山岳部が相次いで誕生したのです。
戦前、大学山岳部は日本の登山をリードし、多くの山で積雪期初登頂やバリエーションルートの開拓が行なわれました。
日本人初のヒマラヤ登山であるナンダ・コット初登頂も立教大学山岳部隊によって成し遂げられています。
「ワンダーフォーゲル」の台頭と衰退戦争で停滞していた学生登山は戦後に再興します。しかし、その様相は戦前とは異なっていました。
50年代以降、多くの学生が山岳部ではなくワンダーフォーゲル(以下、ワンゲル)部で山を楽しむようになったのです。
よって、ワンダーフォーゲル部の創部は戦後の50~60年代が圧倒的に多いです。
大学で初めてワンゲル部ができたのは1935(昭和10)年の立教大学と慶大学で、同時期に明治大学でも設立されました。
戦後になると、国の青少年育成運動を受けてキャンプやユースホステルなどのレクリエーションが流行し、その流れを受けて全国の大学にワンゲル部が創設され人気を集めます。
60年代には大幅な部員増加が始まり、大学によっては100人を超える時期が続きました。
一方、山岳部では60年代半ば、すでに「部員数の減少」が議論されるようになります。その原因については「山岳部へ入らなくとも山に登れる」「大学山岳部イコール遭難」などのイメージが強かったためです。
その後、全国の大学では体育会系の部員数が減少し、同好会やサークルにの現役メンバー人が集まる時代へと移っていきます。
この流れでワンゲル部の部員も減っていきましたが、それでも毎年数十人が所属して安定し活動を展開していました。
大学山岳部はといえば、70年代以降「低迷」「凋落」「衰退」などの言葉が決まり文句のように言われ続けるようになります。
実際、多くの山岳部で部員減少が常態化し、国内外のバリエーションルートの初登攀など先駆的な記録の多くは社会人山岳会のクライマーによって成されていきました。
鍛錬の場としてそれでも、東大隊のシブリン北稜(80年)やK7初登頂(88年)、早稲田大学隊のK2西稜(81年)、北海道大学隊のダウラギリ峰冬季初登頂など、エポックメイキングな登山も継続的に実践されてきました。
学生たちが主体となる活動には、毎年部員が入れ替わるという宿命があります。
よって、チームを牽引する主力メンバーが抜けて活動が停滞し、休部や廃部となってしまった部も少なからずあることは事実です。
しかし、今も存続している部では、個々のメンバーが地道な活動を行ないながらバトンをつなぎ、現在も歴史を紡いでいます。
大学山岳部もワンダーフォーゲル部も、今も昔も山や自然に興味のある若者を育て、鍛錬する場としてあり続けています。
参考資料:山と溪谷編集部『山と溪谷2024年8月号「スリルと展望の北アルプス岩稜案内」』山と渓谷社(2024/7/12)
画像:photoAC
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