朝ドラ「ばけばけ」虚しく孤独な最期…雨清水三之丞(板垣李光人)のモデル・小泉藤三郎の生涯
朝ドラ「ばけばけ」には、多くの魅力的な人物が登場します。
ヒロインの実の弟・雨清水三之丞(板垣李光人)もその一人。三之丞は小泉セツの弟である小泉藤三郎がモデルとなっています。
藤三郎はドラマと同じく、三男として誕生。やがて家業を継ぎますが家業は傾き、困窮していくこととなりました。
しかし藤三郎はその後も明治の時代を、姉である小泉セツと助け合いながら生き抜いていくこととなるのです。
小泉藤三郎はどのような人生を送ったのでしょうか。藤三郎の生涯について見ていきましょう。
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朝ドラ「ばけばけ」儚かった結婚生活…トキ(高石あかり)のモデル・小泉セツの実際の出生と結婚の結末 松江の旧家に生まれた士族の三男明治3(1870)年7月28日〈旧暦6月25日〉、小泉藤三郎は出雲国で松江藩の上士・小泉弥右衛門湊とスエの三男として生を受けました。
父方の小泉家は松江藩の三職(家老・中老・番頭)のうち、番頭に列するほどの家柄です。
母方の塩見家も中老や家老を輩出。いわば藤三郎は藩内切っての武家の名族の血を引く存在でした。
とはいえ、時代はすでに江戸時代から明治に移り変わっています。藤三郎の上には兄が二人おり、家督が継げるはずもありません。
このとき、廃藩置県や秩禄処分によって士族(旧武士)は衰退。小泉家も家運を立て直すべく機織工場を始めていきます。
当時、稲垣家に養女入りしていた姉・セツも工場に就職。旧士族の子女たちを雇い入れて職を与えていました。
しかし兄・氏太郎が町娘と駆け落ちして小泉家を出奔。次兄・武松は19歳で早逝し、四何ていたため、藤三郎が後継者と目されることとなります。
「勉学嫌い」で「鳥好き」の素顔、そして父との軋轢
藤三郎が後継者となって、多くの問題が持ち上がります。
困窮した稲垣家で育ったセツとは違い、藤三郎は苦労知らずで育っていました。当然、意識は大きく違います。
当時の記録によると、藤三郎について「学問は嫌いだが、山野を駆けて鳥の飼育・繁殖に熱中した」とあります。
そんな中、父・湊がリウマチの病を得て寝込むようになると家業は低迷。学問や仕事に身が入らない藤三郎に対し、湊は鞭で打ち据えるなどしたといいます。
こうした性格スケッチは、近年の朝ドラ関連の人物紹介でも繰り返し引かれており、近代化の波に呑まれた旧家の「不器用な末弟」の姿を伝えています。
明治20(1887)年、父・湊が病没。家運はいよいよ傾いていき、今度は小泉本家が困窮していくこととなるのです。
姉・セツと小泉八雲の「外国人結婚願」藤三郎は、決して不甲斐ない弟という存在だけであったわけではありません。
歴史資料の中で、藤三郎の名前と活躍がはっきりと記された事例があります。それが明治28(1895)年10月3日付で、戸主・小泉セツが松江市役所へ提出した、小泉八雲(ラフディオ・ハーン)との「外国人結婚願」です。
当時、日本において国際結婚は珍しいことでした。婚姻届が出されるようになること自体、もう少し後のことです。
前書には「本家小泉藤三郎」と連名での提出と記録され、家の代表=戸主(姉・セツ)と本家筋の弟(藤三郎)が手続きを担ったことがわかります。
藤三郎は姉であるセツのために、保証人的なこともしていた…そう思うと朝ドラの向こう側が見えてくる気がします。
同時に、セツは実母・小泉チエに対して資金援助をしていました。この援助が、結果として藤三郎の生活も支える形になります。
しかしやがて、義兄・八雲から不興を買うことになります。
明治29(1896)年、セツと八雲の夫婦は東京に引っ越すにあたり、小泉本家の墓参りに行った時のこと。
本来あるはずの墓はなく、そこにはへこんだ土地だけが残されていました。不審がって僧侶に尋ねると、随分前に藤三郎が墓所を売却したと言います。
のちに藤三郎が東京を訪ねると、八雲は叱責します。
「あなたは武士の子です」と前置きして「なぜ墓の前で腹を切らなかったのか」と糾弾。帰るように促したと伝わります。
一連の困窮と軋轢により、藤三郎が士族の家の男子として「働き口」「家督」「面目」の三重苦にさらされていたことがわかります。
大正5(1916)年、藤三郎は45歳での世を去ります。その最期は孤独死で、空き家で発見されたと伝わります。
著名人の陰に隠れがちな一個人の苦渋を通じ、地域社会と家(イエ)が近代へ折り合っていく難しさを生々しく語ってくれます。
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