”幕末”はペリー来航以前から始まっていた!泰平の世を揺るがした「内憂外患」とは?
江戸後期の内憂外患
江戸時代が終わりを告げ、「戦乱や社会の不安定からの解放」という為政者側にとってのマニフェストが破られようとしたのがいわゆる幕末期です。
この幕末期が訪れたのは、ペリーと黒船の来航が大きなきっかけだったと長らく教えられてきました。
しかし歴史をつぶさに見るとそれだけではなく、実はもっとずっと前から、大きく分けて二つの原因(問題)があったことが分かります。それは社会の矛盾の表面化と国際社会の変化で、これは、ひとことで言えば内憂外患とまとめられるでしょう。
まず、「内憂」として挙げられることは、1820年代からみられるようになったコレラや天然痘などの感染症の爆発的な流行です。
そして1830年代の前半、東北・北関東一帯に大規模な冷害が起こり、凶作となったことが挙げられます。これらによる社会不安が農村での一揆、都市での打ちこわしの背景となりました。
ちなみにこの時期、反対に人口が増加して生産力が増大した地域もありました。それが長州や薩摩で、なんと人口が約60%も増加しています。その後なぜ薩摩と長州が明治維新の中心となりえたのか、その要因が江戸時代の終わりにあったことが分かりますね。
ラスクマン事件そして次に「外患」ですが、18世紀末、その危機は北方からやってきました。
松平定信が寛政の改革を進めているとき、ロシア使節のアダム・ラクスマンが日本人漂流民を届けるとともに、通商を求めて北海道の根室に来航します。ラクスマン事件です。
すでに国後島のアイヌが蜂起して松前藩に鎮圧された後だっただけに、幕府はアイヌとロシアの連携の可能性をおそれており、幕府は江戸湾と蝦夷地の防衛の強化を諸藩に命じることになりました。
ラクスマンの通商要求と江戸入港許可の要求以後、幕府は択捉島の探検を進めてロシアとの国境線を択捉島の外に設けようとし、蝦夷地への入植や東蝦夷の直轄地化なども進めていきます。
1804年には、さらにロシア使節レザノフが今度は長崎に来航します。ところが通商要求を拒否して冷淡な対応で追い返したため、これに怒ったロシア軍艦が樺太や択捉を攻撃するという事件にも発展しました。
フェートン号事件1811年、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローウニンが日本側に拘束監禁される事件が起こると、ロシアも北方での航路を開拓していた商人高田屋嘉兵衛を抑留して両国の関係は一気に緊張します。
しかし、両国の対立を憂えた日本、ロシアの現地関係者、とくに返還された嘉兵衛の努力でゴローウニンも釈放され、この事件後、ロシアと幕府の関係は改善されました。
このあたりの緊張感はかなりのもので、もしも当時ナポレオンが台頭していなければ、ロシアは一気に極東アジアに南下し、圧倒的な軍事力で、北海道はもちろん日本列島を支配下に置き、今ごろ日本はロシアのサハリン州の一部になっていたかもしれません。
「外患」は長崎でも起こりました。フェートン号事件です。
19世紀初めはナポレオンが大陸支配を進めていた時期です。ナポレオンがオランダを征服すると、イギリスは、オランダが支配していたアジア各地の植民地の拠点を奪える好機ととらえました。
こうしてイギリスの軍艦フェートン号がオランダ商船を拿捕しようと、長崎の出島に侵入し、オランダ商館員を人質として燃料(薪)と水、食料を要求して退去するという事件が起こったのです。
これをきっかけに幕府は、白河藩・会津藩に江戸湾の防備を命じ、対外強硬策に転じました。
もともと幕府は、外交・貿易上の「四つの口」(長崎・対馬・琉球・蝦夷)を中心とする外交秩序を保ってきましたが、この枠組みにとらわれないロシアとイギリスの進出に警戒心を強めることになりました。
このように、ペリー来航以前から幕府は諸外国との対立・交渉を続けていたのです。
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画像:photoAC,Wikipedia
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