孔子を「斬る」と言い放った学者!幕末尊王思想のルーツはここに…知られざる山崎闇斎の生涯【前編】
「もし孔子や孟子が日本に攻めてきたら、どうする?」
江戸時代の学者・山崎闇斎(やまざき あんさい)は、弟子たちにこう問いかけました。突然の質問に答えられず黙り込む弟子に対して、闇斎は「戦って斬るのだ。それが孔子や孟子の教えである」と言い放ちます。
一見すると奇妙な発言ですが、ここには彼の思想の核心がにじんでいます。
闇斎は、儒教の言葉をただ学ぶのではなく、日本という現実の土台に合わせて考え直す。さらには神道とも結びつけ、まったく新しい学問を作り上げたのです。
高校の日本史の教科書では、ほとんど取り上げられませんが、実は幕末の尊王思想を語るときに見逃せない人物――それが山崎闇斎です。
出家から還俗へ
1619年、京都に生まれた闇斎は、幼くして比叡山に入り、のちに妙心寺で僧となります。しかし10代の終わり、土佐で朱子学にふれたことで人生が一変しました。湘南宗化や谷時中に出会い、儒学の奥深さに惹かれていったのです。
25歳のとき、ついに僧をやめ、還俗して儒学者として生きることを選びました。宗教から学問へ――この大きな転身こそ、彼の生涯を象徴する第一歩でした。
京都での学問活動1655年、闇斎は、京都の堀川沿いに私塾を開きました。のちに伊藤仁斎が古義堂を開いた場所の近くで、京都の学問界を刺激する拠点となります。弟子が集まり、やがて「崎門学派」と呼ばれる流れが形づくられていきました。
闇斎はただ経典を講じるだけではなく、自分の言葉で考え、弟子と議論を重ねました。その厳しさと真剣さが、多くの人を惹きつけたのでしょう。
神儒融合への道1665年、江戸に赴いた闇斎は、会津藩主・保科正之に迎えられました。ここで彼は藩政に助言する一方、吉川惟足の神道を学びます。そして、儒学と神道を統合した「垂加神道(すいかしんとう)」を生み出しました。
神々を儒学的な秩序の中に位置づけ、日本の社会や政治を説明し直す。その独創性は、従来の神道とも幕府の朱子学とも異なる新しい思想でした。
それでは次に、この思想がどのように受け継がれ、幕末の尊王思想に結びついていくのかを見ていきます。
参考文献
伝記学会(編)『山崎闇齋と其門流』(1938 明治書房)
伝記学会(編)『 (増補・山崎闇齋と其門流』(1943 明治書房)
澤井啓一『山崎闇斎:天人唯一の妙、神明不思議の道』(2014 ミネルヴァ書房)
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