実は敵より仲間を多く斬っていた!幕末の戦闘集団「新撰組」誇張と脚色に彩られた彼らの実態
幕末もののエンタメ系ストーリーで大活躍するのはなんといっても新撰組でしょう。ところがこの新撰組、小・中学校の教科書で取り上げられることはほとんどなく、高校の教科書でもほぼ欄外扱いです。
例えば山川出版社の『詳説日本史B』では「池田屋事件」に注が打たれて、欄外で「京都守護職の指揮下にあった近藤勇ら新撰組が、尊(尊皇攘夷)派を京都の旅館池田屋で殺傷した事件」とわずか数行で説明されている程度です。
この扱いは寂しい限りですね。
京都市の池田屋跡。名前を使用した居酒屋になっている(2009年・Wikipediaより)
とはいえ映画・ドラマ・小説・漫画などですっかり作り込まれてしまったおかげで、実態とはかけ離れたイメージが世間に浸透しているのも事実です。
実際の新撰組の姿はかなり誇張と虚構によって彩られているところがあり、まともに教科書に載せようとするとかなり面倒なことになるのは間違いありません。
本稿では、そうした誇張・虚構をいくつか取り上げます。
服装も職務内容も地味まずは服装です。新撰組の服装と言えば有名な浅葱色のだんだら羽織と鉢金ですね、
前者のだんだら羽織は袖のところに山形のぎざぎざ模様をあしらったもので、赤穂浪士の討ち入りの衣装をモデルとしたと言われています。
また鉢金は、敵の面打ちから額を守るために、鉢巻きに金属製の板を縫い付けたモノで、戦闘中の汗や血が流れおちて目に入るのを防ぐものでした。
しかし、設立当初はこのような服装をしていたようですが、新撰組の主な職務は潜伏している尊攘派の志士の探索と捕縛だったので、池田屋事件以後は目立たない黒装束が主でした。
考えてみればそれも当然で、あのだんだら羽織は目立ち過ぎます。
隊員たちからは不評だった?新撰組の羽織の模様は実は「忠臣蔵」の浪士たちのオマージュそれから探索・捕縛についてですが、新撰組はあくまでも幕府や諸藩の京都警備の補佐、つまり「お手伝い」なので、小説やドラマのように京都市中を闊歩したりしていません。彼らの担当は祇園と伏見の繁華街が主でした。
それ以外の御所や役所周辺、町人地や寺院周辺は、会津兵や見廻組が警備していました。
そんなに殺していない新撰組の活躍ぶりも、イメージとは大きく異なります。
時代劇や映画では尊攘派の志士を斬りまくっているイメージですが、彼らの仕事はあくまでも探索と捕縛であり、実は志士たちをほとんど殺していません。
池田屋事件でも、最初は新撰組側も少数精鋭だったので「抵抗されたら殺す」という方針でした。しかしそれも、土方歳三の別働隊と合流した後は、捕縛を徹底しています。
実際、この時の戦果を近藤勇は「打取七、手負二、召取二十三」と示しています。
実は、新撰組は内部粛清によって殺された人数の方が多いのです。
新撰組が活動した五年間で粛正された人数は16人、内部抗争で殺された人数は16人に及んでいます。ちなみに敵に殺された人数は7人(うち3人は池田屋事件で死亡)です。
こう聞くと、新撰組には「士道二背キ間敷事」に始まる五箇条の局中法度があったので、これに違反した者が処罰されたんだろうな……と考えられがちです。
ところがこの局中法度も、実際にどの程度厳しいものだったのかはよく分かっていません。永倉新八は大正四年に「小樽新聞」の取材に対して、隊規は四箇条あって「勝手ニ私ノ闘争ヲ不許」の項目は無いと証言しています。
局中法度はフィクション!新選組の”鉄の掟”、実はそんなに厳しくなかった。隊規の実態を探るこれについて混乱が生じたのは昭和三年に子母澤寛が著した小説『新撰組始末記』が原因です。この物語内で、もともとあった新撰組内の禁制項目が脚色されたことから、実際とはかけ離れたイメージが定着したのです。
おそらく、新撰組は「カッコ良すぎた」のでしょう。多少の誇張や脚色を加えてもリアリティが失われないほどカッコ良すぎて、数々のフィクショナルな伝説をもごく自然に背負わされてしまったのです。
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画像:photoAC,Wikipedia
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