【べらぼう】蔦重と出会い武士から町人へ…史実から曲亭馬琴(津田健次郎)の波乱万丈な前半生を追う

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【べらぼう】蔦重と出会い武士から町人へ…史実から曲亭馬琴(津田健次郎)の波乱万丈な前半生を追う

NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」皆さんも楽しんでいますか?

第40回放送「尽きせぬは欲の泉」からデビューした滝沢瑣吉(たきざわ さきち)。

「べらぼう」復活の歌麿!北斎と馬琴の実際、宿屋飯盛の末路ほか… 史実を元に10月19日放送回を解説

後に大ヒット作家となる曲亭馬琴(きょくてい ばきん)の若かりし日々が、活き活きと描かれていくことでしょう。

NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。🄫NHK

そんな滝沢瑣吉とは何者か、今回はその前半生を紹介したいと思います。

幼くして家族と別離

わずか10歳で滝沢家を背負わされ、苦労が絶えない瑣吉(イメージ)

滝沢瑣吉は明和4年(1767年)6月9日、滝沢運兵衛興義(うんべゑおきよし)と門(かど)夫妻の三男として、江戸深川(江東区)で生まれました。

幼名は滝沢春蔵(しゅんぞう)、後に滝沢倉蔵(くらぞう)と改めます。

滝沢家は旗本の松平信成(まつだいら のぶなり)に仕え、兄弟には長兄の滝沢興旨(おきむね)・次兄の滝沢興春(おきはる)・妹のお蘭とお菊がいました。

幼少期から絵草紙や俳句といった文芸に親しみ、7歳で句を詠んだと言います。早くも文豪となる素養を深めていたのでした。

しかし安永4年(1775年)、9歳の時に父を亡くしたことで運命が暗転します。

長兄の興旨(当時17歳)が家督を継ぎましたが、主君から家禄を大きく削られてしまいました。

興旨はこれを不満として主家を去り、次兄の興春は既に他家へ養子となっていたため、安永5年(1776年)にわずか10歳の瑣吉に家督を継がせたのです。

そればかりか、母と妹たちも揃って長兄について行ったため、滝沢家には瑣吉がたった一人で取り残された形になりました。

まったくひどい話ですが、もはや瑣吉一人が食べていくのがやっとなまでに家禄を削られてしまったのかも知れませんね。

かくして家督を押しつけられ……もとい継いだ瑣吉は主君の孫である松平八十五郎(やそごろう)に仕えました。

しかし八十五郎は癇癪持ちだったらしく、それに耐えかねて安永9年(1780年)にとうとう出奔。約4年間、よく耐え忍びましたね。

浪々の青春時代

荒んでいた?瑣吉の青年時代(イメージ)

長兄や母たちと合流した瑣吉は天明元年(1781年)に元服。改名して左七郎興邦(さしちろう おきくに)と名乗ります。

戸田家の徒士(かち)として士官し、奉公する傍らで俳諧・医術・儒学などを学びました。

俳諧:越谷吾山(こしがや ござん) 医術:山本宗洪(そうこう)・山本宗英(そうえい) 儒学:黒沢右仲(うちゅう)・亀田鵬斎(ほうさい)

俳諧については天明3年(1783年)に吾山撰句集『東海藻』へ入選したほか、天明7年(1787年)には自身で『俳諧古文庫』をまとめます。

幼少期から培ってきた文才を発揮しましたが、どうやら性格には難があったようでした。

せっかく長兄の伝手で仕官できた戸田家を辞し、その後あちこちの家を転々とします。

また悪い遊びでも覚えたのか、放蕩無頼の生活を送り、家にも寄りつかなくなりました。

天明5年(1785年)に母が危篤に陥っても連絡がつかず、兄たちが必死に奔走して何とか臨終に立ち会わせたそうです。

そんな弟は放っておけと思いますが、兄たちが情け深かったのか、あるいは母の切望だったのかも知れませんね。

貧しい暮らしが続く中、次兄の興春が若くして亡くなるなど、この時期は瑣吉の身辺で不幸が続きました。

武士から町人へ

山東京伝に無理やり?弟子入り(画像:Wikipedia)

瑣吉が戯作者デビューを果たしたのは、寛政2年(1790年)に山東京伝(さんとう きょうでん)を訪ねて弟子入りを申し出たのがキッカケです。

『御存商売物』よりこのかた、人気作家となっていた京伝。しかし瑣吉の弟子入りを断りました。

しかしそこで諦めるような瑣吉ではありません。しつこく、もとい熱心に頼んだからか、弟子ではなく出入りすることを許されます。

するとちゃっかりしたもので、寛政3年(1791年)に黄表紙デビューを果たした『尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)』では、「京伝門人」大栄山人(だいえいさんじん)と名乗りました。

この年は京伝が筆禍事件で手鎖の刑を受けており、いつしか瑣吉は京伝の代筆を務めるようになります。

京伝に関連する記事:

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また同年の秋には自宅が洪水に見舞われ、京伝宅へ転がり込みました。人の懐に飛び込むのが、とても上手かったようですね。

そんな瑣吉が蔦重こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)と出会ったのは寛政4年(1792年)。京伝の紹介で、蔦屋の手代として雇われることになります。

この時、武士が商人に仕えることを恥じ入った瑣吉は、武士の身分を捨てました。

名前を興邦から解(とく/とくる)と改め、通称も左七郎から瑣吉とします。

※滝沢瑣吉という名前は、この時から名乗りました。

結婚そして更なる飛躍へ

曲亭馬琴『高尾千字文』より。

自ら武士の身分を解除して、新たな人生を歩み始めた瑣吉に縁談が舞い込んだのは、27歳となった寛政5年(1793年)。

蔦重や京伝の勧めで履物屋「伊勢屋」を営んでいた未亡人・会田百(あいだ もも/ひゃく)と結婚しました。

生活のためもあって婿入りしたものの会田姓は名乗らず、滝沢清右衛門(せいゑもん)と名乗っています。

彼女との間には合計一男三女を授かるも家業には熱が入らず、寛政7年(1795年)に義母が亡くなると、待ってましたとばかり履物屋を廃業。噺本や黄表紙の執筆を本格始動したのでした。

そして30歳を迎えた寛政8年(1796年)、蔦屋から出世作となる『高尾船字文(たかおせんじもん)』を出版します。

寛政9年(1797年)に蔦重が世を去るため、大河ドラマではそこから先は見られませんが、瑣吉の人生はここから開花していくのでした。

終わりに

勝川春朗(くっきー!)とコンビになる滝沢瑣吉(津田健次郎)。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。🄫NHK

江戸の大ベストセラー『南総里見八犬伝』を書いた、異才の戯作者

滝沢瑣吉(たきざわ・さきち)〈のちの曲亭馬琴(きょくていばきん)〉

北尾政演/山東京伝(古川雄大)の紹介で、しばらくの間、蔦重(横浜流星)の耕書堂に手代として世話になることに。そこで働く傍ら、戯作者として黄表紙の執筆を始める。蔦重は新たな才能を競わせようと、勝川春朗(くっきー!)とのコンビを組ませるが…。

史実では、二十八年もの歳月を費やして伝奇小説『南総里見八犬伝』を完成させ、その愛読者は近代にまで及ぶ。

※NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」公式サイトより。

今回は滝沢瑣吉について、その前半生を紹介してきました。

物語は終盤に向かい、血気盛んな次世代の傑物たちが次々登場してきますね。

果たして勝川春朗(後の葛飾北斎。くっきー!)とどんなコンビを演じるのか……今後も活躍に期待しましょう!

※参考文献:

麻生磯次『人物叢書 滝沢馬琴』吉川弘文館、1987年10月 杉浦日向子 監修『お江戸でござる 現代に活かしたい江戸の知恵』ワニブックス、2003年9月 高牧實『馬琴一家の江戸暮らし』中公新書、2003年5月

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