朝ドラ「ばけばけ」山岡鉄舟に入門した名剣士。江藤安宗(佐野史郎)のモデル・籠手田安定の生涯
朝ドラ「ばけばけ」には数多くの魅力的な人物が登場します。
島根県知事・江藤安宗もその一人。モデルとなったのは、実際に知事をしていた籠手田安定(こてだやすさだ)でした。
安定は現在の長崎県に生まれ、若くして藩主の側近に抜擢。しかし時代の変化とともに表舞台へと駆け上がっていきます。
安定は何を目指し、どう生きたのか。小泉八雲とどう関わったのか。籠手田安定の生涯について見ていきましょう。
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桑田家は代々平戸藩(藩主は松浦氏)に使える武家でした。
戦国時代には、武将として有名な籠手田安経らを輩出。安経は松浦氏に次ぐ立場として平戸の統治を補佐していました。
源之丞自身も、名門出身であることを胸に精進していきます。
平戸藩伝(藩主・松浦静山が達人であった)の剣術・心形刀流を学び、若くして免許皆伝に到達しました。
その剣の腕と家柄は、源之丞の未来を決定づけます。
平戸藩は源之丞を探索方に任命。風雲急を告げる幕末の京都で、情報収集を担わせました。
京の都に上った源之丞は、河原町の直心影流・戸田一心斎の道場に通って人脈を広げ、師範代・高山峰三郎らと出会います。
文久元(1861)年には、藩主・松浦詮の近習(秘書兼護衛)を拝命。藩主の身辺に支えて、間接的ながら藩政に関わる立場となりました。
しかし国内では、徳川幕府と薩長ら討幕派との争いが深刻化。源之丞も再び中央と関わることとなります。
慶応3(1867)年、源之丞は再び入京。京都市中の警備を担当。翌慶応4(1868)年には明治天皇の大阪親征に供奉しました。
すでにこの時点において、源之丞は平戸藩を代表する立場となっていたことがわかりますね。
明治時代の地方官としての歩み明治維新によって、日本の政治体制は大きな転換期を迎えます。
維新後、桑田源之丞は籠手田安定に改名。これは戦国時代に先祖が名乗っていた姓に服したものでした。
安定は新時代に際し、これまでに培った経験を活かす道を選びます。
明治元(1868)年、安定は大津県判事試補を拝命。新時代の地方役人としての道を歩み始めました。
翌明治2(1869)年には大津県大参事(副知事)となり、大津県の県政に深く関わる立場となります。
明治4(1871)年には全国で廃藩置県が施行。翌明治5(1872)年に大津県は滋賀県へと改称されました。
明治6(1873)年、安定は滋賀県参事を拝命。明治11(1878)年には、権令(県知事)に就任します。
そんな行政の只中でも、安定は剣をやめませんでした。
明治14(1881)年、一刀正伝無刀流の山岡鉄舟に入門。ついには高弟となって、やがて朱引太刀を授与されるほどの信任を得ました。
山岡鉄舟。幕臣として江戸無血開城の実現に奔走。明治天皇の信頼も篤かった。
翌明治15(1882)年の京都撃剣大会、明治16(1883)年の警視庁撃剣世話掛との試合など、明治剣史に名を残しました。
剣術との向き合い方が、安定の業績にも良い影響を与えたのでしょうか。
滋賀県の県政において、特に治水工事に注力。幾度の苦闘の末に田川カルバート(暗渠)の建設に漕ぎ着けます。
工事は明治16(1883)年11月に起工。翌明治17(1884)年6月に竣工となり、安定は長浜の水引神社に祀られるほど感謝されました。
元老院議官就任と各県知事の歴任地方における功績は、安定の評価を決定づけます。
明治17(1884)年、安定は元老院議官を拝命。元老院は国家の立法機関であり、議官は法の制定と改定に関わる立場でした。
翌明治18(1885)年には島根県知事に就任。教育や土木など近代化に取り組むと同時に、困窮士族の救済策も採用しています。
明治23(1890)年、安定は松江中学に英語講師としてイギリス人のラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)を招聘。間接的ながら、島根県の文化伝承に大きな役割を担っていました。
翌明治24(1891)年には新潟県知事に就任。ここでは自らの撃剣門人の看守採用をめぐって県会・地元紙から批判を受ける局面も生じました。
明治29(1896)年、知事として再び滋賀に復帰。湖北ではカルバートの追補修や水防体制がなお課題で、初任期に播いた種が維持管理という形で試されていました。
翌明治30(1897)年12月、勅令によって貴族院議員に選任。中央の舞台で地方行政の実務感覚を発言へと変換します。
明治32(1899)年3月30日、安定は病によって世を去ります。享年58歳。没後に勲一等瑞宝章と男爵が授けられました。
安定の人生は、近代化政策と武士道の合一にあったと考えます。
日本が生き残り、より発展する道は近代化でした。しかし武士道(特に剣術に見出した)は精神の支柱です。
江戸時代の官のあり方から始まり、明治の政治家へと発展・進化していった。籠手田安貞の人生は、日本の文明開花の軌跡とも重なる気がします。
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