日本のジャンヌ・ダルク!女傑・坂額御前と一族ゆかりの”釈迦の左眼”が宝物、新潟県「乙宝寺」とは (4/4ページ)

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のち、後白河天皇が左眼の舎利を納める金塔を寄進した際に、「宝」を追加して「乙宝寺」と改称しました。

筆者も左眼を見学。写真撮影できないので文字で伝えるしかないのですが、大きなガラスケースの中に130センチほどの子供と同等の高さの金の塔があり、その中に更に小さな舎利があります。その舎利にガラスのようなものがはめこまれ、「眼」はその中にありました。

黒い淵と抜けるような透明感があったことはわかりましたが、はっきりとは見えませんでした。すーっと横一文字に線が見えるようでもあり、楕円形の水滴が中に入っているようにもみえました。

しかししばらく引き込まれるように眺めていました。不思議な吸引力があったことは確かです。ちなみに、お釈迦さまの目は青みを帯びた金色という伝説があります。

なぜ、都から遠い北陸の地へインドの高僧を呼んだのか。それはこの地が震災続きだったことに由来します。乙宝寺建立後も、たびたび震災に見舞われ、一度はその左眼も失ってしまいます。

貞観五年(863)・・・貞観の北陸の大地震。寺領崩壊。 寛治六年(1095)に越後で大災害があり、現在の中条付近が大きな被害をこうむる。 康和年間(1099~1104)・・・災害での被害の供養のため、潰されたお寺跡に乙寺が移される。 安元二年(1176)・・・宮禅師が災害でつぶされた寺跡から左眼仏舎利を掘り起こす。京へと持っていかれるが、治承元年(1177)に返還され、寄進を賜り再興される。

なんと、一度は埋まった左眼を掘り起こしたとされる「宮禅師」は、城氏の者です。「乙宝寺縁起絵巻」によると、安元2年(1176)に当時の越後守だった城助永の伯父・宮禅師の霊夢に御告げがあり、それに従い宝塔を掘り起こしたところ、仏舎利を発見したと記されています。

有名な観光地ではありませんが伝説に彩られた新潟・胎内市。日本海をのぞむ雄大な景色を眺めながら、渡来した釈迦の左目のロマンを感じてみてはいかがでしょうか。

参考:乙宝寺

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