【べらぼう】白眉毛こと松平武元(石坂浩二)の読みは何故タケチカ?タケモトから改名した理由
げにありがたきは白眉毛……
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では田沼意次(渡辺謙)と政争を繰り広げながら、あくまで道理を重んじて、田沼を陥れるようなことはしなかった松平武元(石坂浩二)。
権勢を極めた田沼政権にとって目の上のたんこぶとも言える存在でしたが、浮華軽薄に流れゆく時世にモノ申す重鎮として、存在感を発揮しました。
劇中では一橋治済(生田斗真)に暗殺?された描写がなされており、多くの視聴者からその死を惜しまれています。
【大河べらぼう】げにありがたき白眉毛の死因は?次の西ノ丸は誰に?ほか…4月13日放送の考察&レビューそんな松平武元の名前は「タケチカ」と読みます。普通は「タケモト」と読みそうなものですが、何故このように読ませたのでしょうか。
やっぱり初めは「タケモト」だった武元
劇中では白眉毛と煙たがられた松平武元。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。🄫NHK
●武元(たけちか)
初武元(はじめ、たけもと)……。※『寛政重脩諸家譜』巻第50 松平元越智(清和源氏義家流)
系図集によると、やっぱり初めは「タケモト」だったようです。つまり何かのキッカケがあって読みをタケモトから「タケチカ」に変えたのでしょう。
そのキッカケとは、徳川家基(奥智哉)の元服でした。
明和2年(1765年)12月1日に竹千代(幼名)の諱が家基(いえもと)に決定。このままではイエ「モト」とタケ「モト」の読みがかぶってしまいます。
名前の読みがかぶるのは畏れ多いことであり、武元は遠慮して名前の読みを「タケチカ」と改めたのでした(厳密な日時は未詳)。
元という漢字を「ちか」と読むのは特殊ですが、恐らくは「主君の元(近く)にお仕えいたします」という決意表明だったのではないでしょうか。
……三年四月七日孝恭院殿御元服御叙任ありしかば、十八日備前家守の御刀を賜ひ、孝恭院殿よりも時服十領を被けらる。……
※『寛政重脩諸家譜』巻第50 松平元越智(清和源氏義家流)
【意訳】明和3年(1766年)4月7日に家基(孝恭院殿)が元服し、従二位権大納言に叙任された。そこで供奉した武元は4月18日に備前家守の刀を賜わる。また家基から直々に時服十領を賜わった。
時服(じふく)と季節の衣替え代として賜る禄を指します。十領とは十着分に相当し、季節によって袷(あわせ。春秋)・単衣(ひとえ。夏)・綿入(わたいれ。冬)などに充当されたそうです。
第8代徳川吉宗から徳川家重・徳川家治(眞島秀和)と三代将軍に仕えた忠義の老臣は、ますます奉公に励んだことでしょう。
松平武元・基本データ
田沼派とは常に対立していた武元。しかしそれは私利私欲ではなく、あくまで公儀を思ってであった。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。🄫NHK
生没:享保元年(1717年)12月28日生~安永8年(1779年)7月25日没 改名:源之進→武元(たけもと→たけちか) 主君:徳川吉宗→徳川家重→徳川家治 官位:従四位下・侍従、右近衛将監(右近将監) 幕府:寺社奉行、老中 藩主:上野国舘林藩(群馬県舘林市)→陸奥国棚倉藩(福島県棚倉町) 両親:松平頼明(常陸国府中藩主)/久野氏(留與)または林氏(婉) 妻妾:正室(松平忠雅女)側室(佐分利氏、中山氏、藤田氏、石井氏、種村氏、正木氏) 子女:松平武寛・戸田氏教ら 終わりに
徳川家基にも忠義を尽くした松平武元。家基の死を最も深く悲しんだ一人だったかも知れない。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。🄫NHK
今回は徳川将軍三代に仕え「西ノ丸の爺」と呼ばれた忠臣・松平武元について、名前の読み方を紹介してきました。
同じ読みを憚った徳川家基にも奉公したかったでしょうに、家基は安永8年(1779年)2月24日に世を去ってしまいます。
その後を追うように、武元も同年7月25日に63歳で世を去ったのでした。
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、石坂浩二が渡辺謙と共に好演してくれました。
欲望まみれの田沼時代における数少ない硬骨漢であった松平武元。また別作品でも、その活躍を拝みたいですね!
※参考文献:
北島正元『徳川将軍列伝』秋田書店、1989年12月 中江克己『徳川将軍百話』河出書房新社、1998年3月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
