『豊臣兄弟!』でどう描く?三家老・小川下野守はなぜ歴史から姿を消した?豊臣秀長を支えた生涯 (2/3ページ)

Japaaan

ただしこの諱は『太閤記』など軍記物語にのみ登場し、当時の史料には存在しないことから、創作の可能性が否めません。

天正元年(1573年)に浅井家が滅亡すると織田家の武将・明智光秀に仕え、天正10年(1582年)に光秀が秀吉に滅ぼされると、羽柴秀長に仕えました。

秀長の与力として奉公を重ね、天正11年(1583年)に秀吉と柴田勝家を撃破した賤ヶ岳合戦の後、秀長の部将として織田信孝(信長三男)の守備する岐阜城を攻めます。

城攻めが続く4月25日の夜、小川下野守は城の近くに駆け寄り、大音声で城中へ呼ばわりました。

……城中の兵どもよく承れ、去る廿一日柴田権六を生捕り、今廿四日北ノ庄落城し討ち取ったり、今は誰を頼みに籠城せるや……

※『太閤記』より。

【意訳】お前たちの後ろ盾である柴田勝家は4月21日に生け捕られ、4月24日に本拠地である北ノ庄城も陥落した。もはやどこからも援軍は来ないぞ!

この呼びかけで城内は騒然となり、士気を大きく削がれてしまいます。もはやこれまでと信孝は降伏し、4月29日に自害して果てたのでした。

その後も秀長そして秀吉の天下獲りを下支えし、天正13年(1585年)閏8月に秀長が大和国(奈良県)を与えられると、三家老の一人に抜擢されたのです。

家老となった小川下野守は1万5千石(あるいは3万5千石)の知行を賜わり、また秀長の居城となった大和郡山城下の小川町(奈良県大和郡山市小川町)に屋敷を構えました。恐らく小川下野守が住んだことが地名の由来となったのでしょう。

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