幕末のペリー黒船来航の本当の狙い…アメリカは日本の「3つの港」を中継地にしたかった!
アメリカの思惑
ペリーの黒船来航は、日本を開国させた出来事としてよく知られています。しかし、その本当の狙いは、日本列島の3つの港をセットで手に入れることにありました。
3つの港とは、箱館・下田・琉球です。この3港がターゲットにされたことは、当時のアメリカの太平洋戦略と深く関わっています。
1850年代、世界は大きく揺れていました。フランスではルイ・ナポレオンが皇帝となり、積極的な対外政策を進めていました。
1852年に撮影されたルイ・ナポレオンの肖像写真(Wikipediaより)
一方、ロシアは南下政策を強めており、イギリスは中国やインドの利権を守ろうとしていました。
この緊張が爆発したのが、1853年から始まったクリミア戦争です。
このように列強同士の争いが激化する中、アメリカは独自の道を歩み始めます。
補給地を求めてアメリカは19世紀前半に西へ西へと領土を広げ、北部では工業化が進み、南部では奴隷制農業が広がります。1840年代末には太平洋岸に到達し、新たな市場を求めざるを得なくなったのです。
特に急成長したのが捕鯨産業です。鯨油は機械の潤滑油として欠かせず、需要が爆発的に増えました。
しかし太平洋での捕鯨を拡大するには、補給基地が必要です。
中国市場もアメリカにとって重要でした。しかし中国の主要港はすでにイギリスやフランスが押さえており、後発のアメリカは不利な立場にあったのです。
そこで目を付けたのが、日本列島です。日本を中継地にすれば、中国へのアクセスが容易になります。
また、太平洋航路の短縮も大きな魅力でした。大西洋経由では中国へ行くのに130日かかるのに対し、太平洋経由なら約1/7の時間で済みます。
アラスカから北太平洋を下る捕鯨ルートの中間地点としても、日本は最適でした。
こうした理由により、ペリーは単なる開国ではなく寄港地と補給地の確保を狙っていたのです。
世界史と3つの港箱館・下田・琉球の3港は、太平洋航路上でほぼ等間隔に並びます。
そしてそれぞれ、箱館は北海道の最北端に近く、捕鯨船が北太平洋で活動する際の補給に最適です。
また下田は伊豆半島の南端にあり、黒潮の流れを利用した中継点として便利です。
最後に、琉球は沖縄に位置し、台湾や中国南部への入り口となります。
この三角形のネットワークができれば、捕鯨船は航海中に疲れた船員を休ませ、燃料や食料を補給し、中国貿易へスムーズに進めるようになるのです。
これについてはペリー自身も『ペリー提督日本遠征記』の中で「休養と疲労回復に大変便利な三つの場所をわれわれは持つことになる」と、この3港の価値をはっきり述べています。
さて、日米和親条約で開かれた港は箱館と下田の2つでしたが、ペリーは琉球の開港も強く求めていました。
琉球はすでに薩摩藩の支配下にあったのですが、アメリカは琉球を独立した王国として扱い、独自の条約を結ぼうとします。こうして琉球は後年正式に開港しました。
これらの事実から見えてくるのは、ペリー来航が単なる外交交渉ではなかったということです。
アメリカの国内経済、捕鯨産業の拡大、中国市場へのアクセス、そして列強間の競争という大きな流れの中で、日本は地理的にかけがえのない位置にあったのです。
黒船の出現は日本にとっては衝撃でしたが、世界史の文脈では、アメリカの市場拡大計画の一環として必然だったと言えます。
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浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:photoAC,Wikipedia
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