江戸時代の若者のデートは「見世物小屋」!?――深川の繁華街に見る、庶民的娯楽と男女の距離感
江戸時代中期から後期にかけて、現在の東京都江東区にあたる深川一帯は、江戸でも有数の行楽地・繁華街として発展していました。
富岡八幡宮の門前町としての賑わいに加え、辰巳の遊里が形成され、周辺には料理屋や茶屋が集まっていました。参詣や川遊び、食事、遊興を目的とした人々が多く訪れていたことは、当時の史料や研究書からも確認されています。
宗教施設、水辺の景観、歓楽街、娯楽施設が隣り合う深川の町並みは、江戸の中でも独特の性格を持っていました。信仰と遊び、日常と非日常が混在するこの地域は、人々にとって「何かをしに行く場所」であると同時に、「ぶらぶら歩くだけでも楽しい場所」だったと考えられます。
現代的に言えば、都市機能が重なり合った行楽エリアと表現すると、やや近い感覚になるでしょう。
見世物小屋という庶民の楽しみこうした深川を含む江戸の町では、芝居小屋や寄席と並んで、見世物小屋も庶民に親しまれた娯楽の一つでした。
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見世物の内容は幅広く、珍獣、奇術、曲芸、芝居仕立ての演目のほか、身体の奇形や異様さを強調した出し物など、「珍しいもの」「ふだん目にしないもの」を見せる工夫が凝らされていました。
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見世物小屋の木戸銭、つまり入場料は、興行の規模や内容によって差がありましたが、小規模なものであれば一人あたり数文から十数文程度という例も知られています。
そのため、芝居や寄席と同様に、若い町人や下級武士にとっても、比較的気軽に足を運べる娯楽であったと考えられます。
若者たちと見世物の距離江戸後期の風俗研究者・随筆家である喜田川守貞によって著された『 守貞漫稿』(もりさだまんこう) には、見世物や雑芸、庶民の遊興についての記述が多く見られます。そこからは、若者たちが芝居や見世物見物に集まり、都市の娯楽空間を共有していた様子を読み取ることができます。
見世物小屋は、ただ演目を眺めるための場所というよりも、人が集まり、同じものを見て、同じ時間を過ごす場でした。
特別な記念日でなくとも、何か面白いものがあれば覗いてみる。そうした軽やかな関わり方が、当時の若者文化の一部を形作っていたのでしょう。
遊里と「身の丈に合った」娯楽
一方で、江戸の大遊郭である吉原などは、利用に多額の費用を要し、一般町人や下級武士が日常的に通える場所ではありませんでした。
そのため、芝居、寄席、見世物、門前町の茶屋といった、より安価で身近な娯楽が庶民の間で発達していきます。
深川のような繁華街では、華やかな遊里文化を身近に感じながらも、実際には懐具合に合わせて見世物や屋台を楽しむ若者が少なくなかったと考えられます。
高価な遊びを遠巻きに眺めつつ、自分たちなりの楽しみ方を見つける――そうした距離感もまた、江戸の都市文化の一側面でした。
芝居や見世物、川辺の行楽などを通じて、江戸の都市空間が若者を含む庶民の社交の場であったことは、多くの風俗画や随筆が伝えています。人が集まる場所には、自然と会話が生まれ、関係が生まれ、ときに感情の動きも生じます。そうした意味で、見世物小屋もまた、人と人とを結びつける場の一つであったと言えるでしょう。
もっとも、見世物小屋を現代の「定番デートスポット」と同一視することはできません。
それは恋愛のために特化された場所ではなく、あくまで日常の延長線上にある娯楽の場でした。
けれども、深川の通りを並んで歩き、たまたま立ち寄った見世物小屋で同じものを見て、同じ場面に驚いたり、笑ったりする――。
その帰り道に、特別な言葉を交わしたわけでもなく、何か劇的な出来事があったわけでもない。それでも、「今日は悪くなかったな」と感じる瞬間が、確かにあったはずです。
見世物小屋は青春の場だったのか見世物小屋は、恋を始めるための舞台ではなかったかもしれません。しかし、恋が芽吹く前の、名前のつかない時間を過ごす場所としては、十分に役割を果たしていたのでしょう。
江戸の町にも、そうしたささやかな青春が、音もなく息づいていました。それを想像するだけで、深川の喧騒が、少しだけ身近に聞こえてくるような気がします。
参考文献
喜田川 守貞 (著), 宇佐美 英機 『近世風俗志 1 守貞謾稿 』(1996 岩波書店) 竹内誠 監修 『図説江戸5 江戸庶民の娯楽』(2003 学習研究社)トップ画像:「雪中相合傘」鈴木春信 画 (Wikimedia Commons より)
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