【豊臣兄弟!】で近々描かれる「桶狭間の戦い」少数の織田軍が奇襲で勝利…がほぼ創作といえる理由
1560年(永禄3年)、織田信長(演:小栗旬)の名を一躍天下に知らしめた「桶狭間の戦い」が勃発しました。この合戦をめぐっては、今川義元(演:大鶴義丹)の上洛の意図や、両軍の兵力差をはじめ、今日に至るまで多様な説が語られています。
本稿では、「圧倒的な今川軍に対し、少数の織田軍が奇襲によって勝利した」という従来の桶狭間像に潜む矛盾点を検証。
信長と義元それぞれの所領と石高に注目しつつ、大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも注目される「桶狭間の戦い」の実像に迫っていきます。
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すべては織田軍の罠だった!?「桶狭間の戦い」で今川義元はなぜ“休憩“していたのか… 「桶狭間の戦い」はなぜ起きた?正確な場所はどこ?有名なのに実は不明点だらけ…【前編】 桶狭間は奇襲ではなく、ほぼ互角の戦力での正面戦「豊臣兄弟」、すなわち豊臣秀吉(演:池松壮亮)と豊臣秀長(演:仲野太賀)の人生は、戦国時代後半の合戦史とほぼ重なります。そして二人とも、40代まで織田信長の家臣として、さまざまな戦いに身を投じていました。
さて、「桶狭間の戦い」は、尾張国統一を果たしたばかりの信長にとって、やはり一大危機ともいうべき出来事でした。そして結果論にはなりますが、この戦いに勝利したことで、信長にとって将来の展望が大きく開けたことは間違いないでしょう。
「桶狭間の戦い」の発端は、駿河・遠江・三河を領有する今川義元が、領土拡大のために尾張へ進出したことです。義元の目的は、知多半島方面への支配権を確保することでした。つまり、義元にとっては、映画やドラマでよく描かれるような「上洛を目指しての出兵」ではなかった、というのが現在では定説となっています。
また、双方の兵力を石高から推計すると、義元は駿河国約15万石・遠江国約26万石・三河国約29万石、合計約70石を領有していました。一方、信長は尾張国一国ではあるものの、約57万石を領有していました。
この石高を1石につき、おおよそ300人の兵を動員できると仮定すると、今川家は約2万人、織田家は約1万7千人と、総動員できる兵力差はさほど大きくなかったことになります。
出陣前の織田信長と重臣たち(大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイト)
しかし信長は、ようやく尾張を平定した直後であったため、全兵力を容易に結集することはできなかったと考えられます。一方の義元も、本拠地である駿河をはじめ、既存の領国に留守の兵を残す必要がありました。
つまり、両者が動員できた兵力は、多く見積もっても全体の7割から8割程度であったと考えられます。そうなると、今川勢は約1万5千人、織田勢は約1万2千人という推測が成り立ちます。
否定されている電撃的な奇襲作戦による勝利では、なぜこの時期に義元は尾張侵攻に踏み切ったのでしょうか。その背景には、尾張国が米の生産に適した肥沃な土地であったことが挙げられます。
実際、今川家が領有する駿河・遠江・三河の三国を合わせても、ようやく尾張一国を上回る程度の石高であったのです。さらに尾張には、熱田・甚目寺・津島といった市場や港町が存在し、信長の父・信秀の頃から経済活動もきわめて活発でした。
義元にとって、尾張統一を果たしたばかりで体制が未だ不安定とみられる信長を討つ好機は、この時をおいて他になかったと考えられます。そのため兵を動かした、というのが実相に近い見方でしょう。
したがって、映画やドラマで描かれるような「3万近い今川勢を、信長がわずか2~3千の兵で破った」、しかも「電撃的な奇襲作戦によって勝利した」という図式は、現在ではほぼ否定されています。
愛知県清須市・清洲公園内の織田信長銅像(Wikipedia)
余談ながら、「桶狭間の戦い」が信長の少数兵力による奇襲で成功したとする説は、明治以降になって唱えられるようになりました。思想家・徳富蘇峰らの研究を通じて、日本人のメンタリティーに訴えかける「小よく大を制す」という観念が強調されるようになったためです。
当時の日本は、大国・清との戦争である日清戦争を経て、ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉に直面し、さらに大国ロシアとの戦争へと突き進んでいく時代にありました。そうした国際情勢のなかで、「小よく大を制す」の象徴ともいえる「桶狭間の戦い」は、時代の要請にかなう格好のモデルであったのです。
桶狭間は、諜報・謀略を駆使する信長戦術の原点さて、今川義元が「東海一の弓取り」と称されるほどの名将であったことは疑いありません。ようやく尾張統一を成し遂げたばかりの信長とは、当時において武将としての格に大きな差があったと言っても過言ではないでしょう。
大鶴義丹が演じる今川義元(大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイト)
では、そのような義元に対し、なぜ信長は勝利を収めることができたのでしょうか。その要因として挙げられるのが、刻一刻と変化する今川軍の動向に対し、信長が臨機応変に対応した戦術が的確に機能した点です。
そして、その背景には信長が構築していた諜報ネットワークの存在があったと考えられます。別稿で詳述しますが、その諜報網の一部には、若き日の秀吉も加わっていた可能性があったのではと思われるのです。
さらに信長がこのような戦術を駆使し得た背景には、両軍の戦力がほぼ拮抗していたことに加え、信長が“迎え撃つ側”であったという有利な立場がありました。
すなわち、遠征軍である今川勢に対し、信長は自領の防衛に専念すればよかったのです。隅々まで知り尽くした自らの領内という“土俵”で正面から戦えたことは、信長にとってきわめて大きな強みとなりました。
ちなみに「桶狭間の戦い」以降、信長は自軍の兵力が相手より劣るような戦いは一度もしていません。
諜報や謀略によって情勢を慎重に見極め、勝機と判断すれば、相手を大きく上回る兵力を一気に投入し猛スピードで滅亡に追い込む。信長は、「勝つべくして勝つ」戦いを積み重ねていくことになるのです。
2026年大河『豊臣兄弟!』で注目の舞台──豊臣秀吉・秀長の主君・織田信長が築いた安土城とは?【前編】 織田信長が小姓を呼びつけておいて「何でもない」実は“試して”いた、信長の繊細すぎる人材登用術※参考文献
谷口克広著 『織田信長合戦全録:桶狭間から本能寺まで』中央新書
黒田基樹著 『羽柴を名乗った人々』角川文庫
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