個人の権利は後回し…明治の象徴「四民平等」実際は平等ではなく身分制度の再編に過ぎなかった
明治の象徴「四民平等」
明治時代を象徴する言葉として四民平等というのがありますね。私たちにとっても非常に馴染んだキーワードです。
このキーワードは、江戸時代の身分の区切りが消えて新しい時代が来た……と印象づけるには便利な言葉です。
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教科書からすでに「士農工商」は削除!実は身分制度・身分序列を表す言葉ではなかった【前編】しかしこれは当時の正式な制度名ではなく、実際には段階的に進んだ身分の再編をまとめた通称にすぎません。数字で追うと、その実態がよく見えてきます。
1869年に版籍奉還が行われ、公家と大名は華族、上級の藩士は士族とされました。
同じ年の終わりには、下級武士が卒族と分類されます。翌1870年には農民と町人が平民とされ、苗字を名乗ることが許されました。
さらに1871年には身分をこえた結婚が認められ、穢多・非人という呼び名が廃止されます。これが身分解放令です。
そして1872年には卒族が廃止され、多くが平民に統合されました。
身分制度の再編このように数字だけを追っても、わずか数年のあいだに身分制度が大きく組み替えられたことがわかります。
けれども、これで身分差が完全に消えたわけではありません。
1873年の徴兵令、1876年の廃刀令、そして秩禄処分によって士族の特権は消えましたが、そのため士族の多くは職業上の利権を失い、生活に困るようになりました。就職や結婚での差別も残りました。
一方で華族は皇室の藩屏とされ、政治や経済の面で特権を維持します。
明治21年(1888年)の宮内省庁舎(Wikipediaより)
つまり、平等になったというよりも身分制度が再編され、新しい三つの身分構造ができあがっただけとも言えます。
この再編と同時に、明治政府は戸籍制度の整備を進めました。
1871年に戸籍法がつくられ、翌年に壬申戸籍がまとめられます。
江戸時代にも宗門人別改帳が存在していましたが、これは寺が人々を管理する仕組みだったため、近代国家の人口把握には向いていませんでした。
壬申戸籍はその代わりとなる制度で、皇族・華族・士族・卒族・平民の人口が初めて明確に記録されます。
ちなみに日本史関係の文章で新平民という言葉を目にすることもありますが、壬申戸籍にはこの言葉の記載はなく、後に生まれた俗称であることが研究で確かめられています。
平等よりも国家建設壬申戸籍の数字を見ると、皇族は3人、華族は2821人、士族は154万8568人、卒族は3万3881人、平民は3110万6614人でした。
これを見ると平民が圧倒的多数であり、国家がどの層を基準に制度を作ろうとしていたかが読み取れます。
教科書では、しばしば「四民平等」が同じ権利と義務を持つ国民をつくるための改革と説明されます。
しかし、実際には徴兵令・地租改・学制など、国家が必要とする制度を実行するための準備として身分を整理した側面が強いものです。
つまり、国家が統治しやすいように身分をまとめたのであって、近代的な平等の理念が先にあったわけではありません。
明治政府の関心は国家建設にあり、個人の権利は後回しでした。
「四民平等」の実態は、近代国家の理念に基づく制度ではなく、国家運営のための制度的な再編に過ぎなかったのです。
民衆が自分の権利を意識し、それを求めるようになるには自由民権運動の時代をまつ必要がありました。
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画像:photoAC,Wikipedia
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