皇室の祖神は天照大神ではなかった──古事記・日本書紀から最初の皇祖神・高御産巣日神の正体を考察
新年を迎え、1年の幸福を願い、初詣で神社を参拝された方も多いのではないでしょうか。
神社に祀られている神々は多種多様ですが、日本神話に登場する神々の中で、最もよく知られた存在といえば、天照大神(あまてらすおおみかみ)を思い浮かべる方が多いでしょう。
天照大神は、天皇家の祖神(皇祖神)として伊勢神宮に祀られてきた神ですが、実は天照大神が皇祖神として確立される以前、より早い段階で「皇室の先祖神」と位置づけられていた神さまが存在していました。
その神の名は、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)といいます。
なぜ高御産巣日神ではなく天照大神が、皇室の先祖神として確立されていったのか?
本稿では、誰もが皇室の祖神と認識する天照大神と、あまり知られることのないもう一柱の皇祖神・高御産巣日神に光を当て、比較・考察し、その歴史的・神話的背景を、読み解きます。
比較・考察の内容・『古事記』『日本書紀』から高御産巣日神と天照大神を比較
・両神は神話の中で、どのような関係性にあったのか考察
・天照大神が皇祖神として確立していく流れを解説
天照大神。『岩戸神楽乃起顕(国貞改豊国画)』(Wikipedia)
本来の司令神と目されていた高御産巣日神日本神話の原点とも目される『古事記』『日本書紀』には、数多くの神々が描かれていますが、その中でも皇室の祖神、そして至高神(神々の頂点に立つ神格)とされる存在が天照大神です。まずは『記紀』の神話をもとに、天照大神と皇室との結び付きについて見ていきましょう。
天照大神。『岩戸神楽ノ起顕(歌川国貞画)』(Wikipedia)
日本神話では、地上世界が平定されると、高天原(たかまがはら)を治める天照大神が、孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に宝鏡を授け、「地上に降り、子々孫々に至るまで国を治めよ」との神勅を下します。
これを受け、邇邇芸命は八柱の神々を伴い、九州の高千穂峰に降り立ちました。これが、いわゆる「天孫降臨神話」です。
そして、この邇邇芸命の子孫が初代天皇・神武天皇であることから、天照大神は皇室の皇祖神として崇められ、伊勢神宮に祀られるようになりました。
ちなみに神武天皇は、『記紀』によれば天照大神の五世孫であり、同時に高御産巣日神の五世の外孫でもあると記されています。すなわち『記紀』は、神武天皇が天照大神と高御産巣日神の両神を祖神とする存在であることを示しているのです。
神武天皇。『神武天皇御尊像(北蓮蔵画)』(Wikipedia)
では、天照大神と高御産巣日神とは、どのような関係にあったのでしょうか。
一般に、邇邇芸命に地上世界への降臨を命じた「司令神」は天照大神であると理解されています。しかし、この点については『古事記』と『日本書紀』とで記述が異なっています。
『古事記』では、天照大神と高御産巣日神の二神が共同して命じたとされているのに対し、『日本書紀』では高御産巣日神が単独でこれを行ったと記されています。つまり『日本書紀』の記述に従えば、地上世界を治める命を下した司令神は、高御産巣日神であったということになります。
さらに、天孫降臨に関するその他の伝承を見ても、天照大神が単独で司令神として登場する例は、わずか一例にすぎません。このことから、『記紀』成立以前の段階では、高御産巣日神を司令神と位置付ける伝承の方が主流であった可能性がうかがえます。
すなわち、高御産巣日神と天照大神を比較した場合、本来的には高御産巣日神の方が、より至高神として認識されていたと考えられるのです。
天照大神と高御産巣日神は婚姻関係で結ばれていた前項では、天照大神よりも高御産巣日神のほうが、より至高神的な存在として認識されていた可能性について述べました。では、両神は神話の中で、どのような関係にあったのでしょうか。
天照大神は、伊邪那岐命(いざなきのみこと)が禊(みそぎ)を行った際に誕生した「三貴子」(須佐之男命・月読命と並ぶ一柱)です。一方の高御産巣日神は、天地が分かれ始めた混沌の神代に出現したとされる「別天つ神(ことあまつかみ)」の一柱であり、きわめて原初的かつ特別な存在とされています。
邇邇芸命。『音川安親編 万物雛形画譜』(Wikipedia)
すなわち、高御産巣日神は天上界である高天原に最初に現れた「造化三神」の一柱であり、邇邇芸命の母である万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)の祖父にあたる神とされています。神々の系譜上から見ても、高御産巣日神は天照大神よりも先に誕生した神であることが分かります。
このように、天照大神は国生み神話に連なる伊邪那岐命の系譜から生まれた三貴子であるのに対し、高御産巣日神は造化の段階に属する別天つ神という、異なる神系に属していました。しかし、その子孫神同士の婚姻によって邇邇芸命が誕生し、両神系は姻戚関係によって結ばれることになったのです。
天照大神は奈良時代に皇祖神として確立された天照大神が天皇家の皇祖神として伊勢神宮に祀られていることは、多くの人が知るところでしょう。現在、有力視されている伊勢神宮の成立時期は、7世紀後半の天武天皇の時代とされ、この頃に現在につながる形へと整備され、祭神として天照大神が祀られたとする説が一般的です。
このことから、天皇家が天照大神を皇祖神として位置づけたのは、飛鳥時代後期であったと推測されます。この時代は、藤原京に宮都が置かれ、大化の改新を集大成とする中央集権体制が急速に推し進められた時期でもありました。
しかしここで、「飛鳥時代後期=天照大神を皇祖神」とする理解を揺るがしかねない、注目すべき点を挙げておきたいと思います。それは、宮廷祭祀と深い関わりをもつ神々を扱った『延喜式』の祝詞に、天照大神の名がほとんど登場しないという事実です。
仮に同神の名が挙げられる場合でも、多くの神々の後に付記される程度にとどまっています。この点から、伊勢神宮創建当初の主祭神は、必ずしも天照大神ではなかった可能性が浮かび上がってきます。
では、伊勢神宮の主祭神は誰であったのか。それが高御産巣日神であったと考えられるのです。そして、天照大神が皇祖神として前面に押し出されるのは、奈良時代に入ってからのことでした。
奈良時代になると、律令国家が成立し、神社制度も体系的に整備されていきます。その過程で、天照大神は高御産巣日神に代わって皇祖神として位置づけられ、伊勢神宮内宮の主祭神となったと考えられます。
すなわち、奈良時代に編纂された『記紀』の神話において、初代・神武天皇と同様に、天孫降臨の舞台とされる九州と縁の深い天照大神を、天皇家の始祖神として前面に据えたのです。
高御産巣日神こそ本来の天皇家の祖先神だった現在、天皇家の皇祖神とされる天照大神は、奈良時代に『記紀』が編纂される過程で、その地位を確立した神でした。
その背景には、日本が倭国的段階から脱し、律令国家へと飛躍する中で、天皇家への権力集中と、その正統性を神話的に支える天孫思想が不可欠であったという事情があったのです。
しかし、『記紀』の編纂者たちは、元来の天皇家の皇祖神が高御産巣日神であったことを十分に認識していたのでしょう。そのため、同神の位置づけに配慮し、天照大神に先行する特別な存在として、日本神話の体系の中に組み込んだと考えられます。
ちなみに高御産巣日神(たかみむすひのかみ)は、農耕や生産に関わる神であり、「むすひ」の「ひ」は「日」、すなわち太陽を意味すると解釈されます。もともとは太陽神的性格を有していたものが、生産神へと性格を変えていきました。そして同じ太陽神であるがゆえに、その神格が天照大神へと引き継がれていったのです。
このように、高御産巣日神は本来の天皇家の祖先神であり、天孫降臨を司る司令神として、天皇家創設において極めて重要な役割を果たした神であったといえるでしょう。
そして、同神は天照大神以上に「真の至高神」、すなわち神々の頂点に立つ神格として捉えることもできるのです。
※参考文献:國學院大學「古典文化学事業」
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan