「大化の改新」の本質はなんと“豪族の脱税”を止める徹底した財政改革だった
「大化の改新」(現在は「乙巳の変」とも)は、日本の古代史の中でも特に有名な出来事です。
多くの場合、蘇我氏の排除や新しい政治制度の導入が強調されますが、その核心にあったのはもっと現実的で切実な問題でした。
結論から言えば、大化の改新とは豪族による脱税をストップさせ、国家が税を直接集めるための構造改革だったと説明できます。
制度の変化を細かく見ていくと、その目的がはっきりと浮かび上がります。
• 豪族が“抜け道”を作れた理由
• 班田収授・租庸調が「脱税封じ」だった根拠
• 脱税防止を支えた国司制度と会計監査
今回は、制度の細部から改新の狙いを見ていきましょう。
「大化の改新」で誰もが思い浮かぶ蘇我入鹿暗殺(Wikipediaより)
「大化の改新」導入のワケ改新以前の日本では、氏姓制度のもとで豪族が自分の領地を支配し、朝廷には貢物を納めるだけでした。
これは税のように見えますが、実際には豪族の裁量に任された不安定な仕組みで、力のある豪族ほど納める量を減らし、私財を蓄えることができました。
こうなっていしまったのは、朝廷は全国を直接支配しておらず、徴税も徴兵も豪族を通すしかなかったのが原因です。これでは国家の財政は安定せず、軍事力も整いません。
さらに、当時の朝鮮半島では唐と新羅が勢力を拡大し、日本と関係の深かった百済が追い詰められていました。
日本は国を挙げて防衛体制を整える必要があり、そのためには安定した税収と兵力が不可欠でした。こうした状況が、大化の改新を後押ししたのです。
「数字をつかむ」会計制度ところで、大和朝廷はすでに高度な会計制度を持っていました。木簡に残る記録から、人口や収穫量を把握する文書行政が整っていたことがわかります。
会計制度が整えば、どれだけの税が取れるか、どれだけの兵を動員できるかを正確に計算できます。国家運営の基盤は、まさに数字をつかむ力でした。
例えば改新後に導入された班田収授の法は、その象徴です。
この制度では、土地はすべて国家のものとされ、農民には一定の面積を貸し与え、6年ごとに戸籍作成・土地測量・土地配分が全国一斉に行われました。
これは中国の均田法を参考にした制度ですが、日本ではより徹底して実行されました。豪族の私有地を解体し、国家が土地と人口を直接管理するための仕組みだったからです。
税制も租庸調という形で整えられました。租は米、庸は労役、調は布や特産物で、負担は収穫の三%ほどと重くありませんでした。
正倉に蓄えられた米は貧しい人への支給にも使われ、社会保障の役割も果たしていました。
税の内容が明確になり、徴収と支出が記録されるようになったことで、豪族が勝手に税を抜き取る余地は大きく減りました。
大国を押し返す力にさらに、国司制度と厳格な会計監査も脱税防止を支えました。
国司は4〜6年の任期で各地に派遣され、毎年「大計帳」「正税帳」「調帳」「朝集帳」を中央に提出します。
さらに現在の領収書にあたる返抄が発行され、収支は結解にまとめられ、国司交代時には未精算のものをすべて清算しなければなりませんでした。
現代の会計監査とほぼ同じ仕組みが、すでに古代に存在していたのです。
とはいえ、こうした制度改革を一気に行うには、豪族の力を削ぐ必要があります。豪族が私財を蓄えるのを防止するとなると、反発が起きるのは必至だからです。
特に蘇我氏は財政機関を握り、莫大な富を蓄えていたとされます。大化の改新で蘇我氏が排除されたのは、土地と税の国家管理を進めるための前提条件だったと考えられます。
改新の成果は、白村江の戦いにも表れています。
663年、日本は千艘の船と数万規模の兵を朝鮮半島に派遣しました。これは当時としては驚くべき動員力で、国家の財政と軍事の基盤が整っていたことを示しています。
敗北はしたものの、日本の国力を唐に示す結果となり、その後の本土侵攻を思いとどまらせた可能性があります。
大化の改新は、理想主義的な制度改革ではなく、国家の生存をかけた現実的な財政改革でした。
新制度の細部を見れば、その目的がどれほど切実で、どれほど徹底していたかがよくわかります。
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画像:photoAC,Wikipedia
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