【衆院選】違和感に気づいても、なぜ人は流される?150年前に福澤諭吉が警告した“世論の危うさ”

Japaaan

【衆院選】違和感に気づいても、なぜ人は流される?150年前に福澤諭吉が警告した“世論の危うさ”

私たちは、自らの判断で政治を選んでいるつもりでいます。

しかし、その選択は本当に理性に基づいたものなのでしょうか。昨今の選挙結果を振り返ると、その時々の空気や感情が大きく影響していると考えずにはいられません。

今から150年以上前、日本の近代化を導いた思想家・福澤諭吉は、民主的な政治が進むほど「世論」が国を動かす力を持つ一方で、その世論が未成熟であれば、国家そのものを誤らせる危険があると鋭く警告していました。

福澤といえば『学問のすゝめ』が有名ですが、彼の文明観や政治思想を体系的にまとめたのが、1875年刊行の『文明論之概略』です。

そこには、現代日本の政治状況と重ね合わせずにはいられない洞察が数多く記されています。

1901年(明治34年)の福澤諭吉(Wikipedia)

※合わせて読みたい記事

「参議院の歴史​」参議院はかつて違う名前になりそうだった?戦前と戦後の議会の違い

『文明論之概略』に描かれた“未熟な民情”の怖さ

福澤諭吉が、現在の政治危機にも通じる論説を述べたのは、1875年(明治8年)8月20日に刊行された『文明論之概略』です。

『文明論之概略』

ここでは、その内容を要約して紹介しましょう。

「近年の政府は十分な成果を挙げていない。役人や行政府の中心人物は極めて優秀であるにもかかわらず、政府は成果を出せていない。その原因は、政府が『多勢』、すなわち『衆論』=『大衆世論』に従っているからである。」

さらに、
「役人も政治家も『世論』に従うしかない。『衆論』の向かうところには天下に敵なしで、優に一国の政策を左右する力を持っている。だから、行政がうまく機能しないのは、役人の能力のせいではなく、『衆論=世論』の罪である。」

福澤は同書の中でこのように述べ、民衆の感情が理性に勝つことを強調し、その結果、流行や空気で政治が動く現象を憂いています。

そして、一刻も早く『衆論』=『大衆世論』の非を正すことが必要だと強調しているのです。

「世論」の本質とは。それは本当に民意と言えるのか

「世論」とは何でしょうか。英語では「パブリック・オピニオン(public opinion)」といいます。

世論のイメージ。絵入自由新聞(Wikipedia)

パブリックは「公共」や「人々」、オピニオンは「意見」や「考え」という意味です。つまり世論とは、多くの人が共有している意見のことだといえるでしょう。

この「多くの人」とは、もちろん国民のことです。しかし、この国民という存在が実はとても複雑なのです。

国民は一人ひとり、考え方も価値観も違います。持っている知識や関心ごともさまざまで、同じ問題を見ても受け取り方は人によって大きく異なります。

そうなると、国民全員が同じ意見、同じ世論を持つということはほとんどあり得ません。それぞれの立場や考えに応じて、世論は自然といくつも生まれることになります。

ところが、その中で「多くの人が支持している意見」を世論と呼び、それを絶対的なもののように扱ってしまうと問題が起こります。

なぜなら、世論は決して安定したものではなく、その時々の社会の雰囲気や感情に強く影響されやすいからです。このように移ろいやすい世論を、そのまま国民全体の意思、つまり「民意」だと考えてしまうのは、とても危険なことなのです。

現代は、まさに混沌とした時代といえるでしょう。経済に目を向ければ、社会主義も資本主義も行き詰まりを見せています。

その中で、日本だけでなく世界各地で、「経済成長こそが正義」「グローバル化は万能」「大国が主導する国際秩序が安定をもたらす」といった、これまで当たり前とされてきた価値観が揺らぎ始めています。

こうした時代だからこそ、国民一人ひとりが将来の方向性を見据え、自らの意思を民意として示すことが、これまで以上に重要になっているはずです。

現代日本に重なる福澤諭吉の鋭い警告

まもなく衆議院選挙が行われます。最新(2月2日現在)の報道では、「自民党が単独過半数を獲得しそうだ」「与党で300議席を超える可能性もある」といった見方が相次いでいます。

しかし、ここ数年の政治情勢を振り返ると、多くの人が強い違和感を抱いていることも事実です。「このタイミングでの解散は不自然ではないか」「本来は物価高への対策が最優先ではないのか」「政治とカネの問題は、結局うやむやになっていないか」。こうした声は、世論調査や街頭インタビューでも頻繁に聞かれます。

ところが、選挙が近づくにつれて示される支持動向を見ると、これらの不満や疑問が、そのまま投票行動の変化につながっているとは言い切れません。

違和感を覚えながらも、最終的にはこれまでと同じ選択肢に戻っていく……。ここに、現代日本が抱える「疑問と行動のズレ」が浮かび上がります。

この現象を、明治時代に福澤諭吉は鋭く指摘していました。

『文明論之概略』の中で福澤は、人々が政治に関心を持ち、意見を表明すること自体は文明の進歩だと評価しています。

しかし同時に、その判断が感情や習慣、周囲の空気に流されるようであれば、「世論」は社会を良い方向へ導く力にはならないと警告しました。

「不満はある。」「疑問もある。」それでも、「変えることへの不安」や「皆と同じでいる安心感」が勝ったとき、人々は結局、現状を追認してしまいます。福澤は、こうした心理こそが民意の未成熟さであり、民主政治における最大の危険だと考えていました。

福澤諭吉。明治24年頃の肖像(Wikipedia)

現代の日本でも、多くの有権者は物価の上昇や生活の苦しさ、政治への不信感に強い問題意識を持っています。

それにもかかわらず、行動としては大きな変化を起こさない……。この矛盾こそが、福澤の警告が今なお通用していることを示しているように思えます。

世論としては不満が噴き出す。しかし最終的な選択は、慣習や空気に支配される。それは、表面上は民主的でありながら、理性よりも感情が政治を動かしている状態にほかなりません。

福澤諭吉が本当に恐れていたのは、「自分で考えているつもりで、実は流されていく民衆の姿」でした。そして結果として、それが権力者の独裁に繋がっていくのです。

「世論が成熟しないまま影響力だけを強めれば、政治は改革されるどころか、同じ問題を繰り返し続ける。」

福澤諭吉はその危険性を、150年前にすでに見抜いていたといえるでしょう。

※福沢諭吉と政治家に関する関連記事

「アホウの頂上、議員となす」福沢諭吉による政治家を痛烈に皮肉った狂詩が毒舌の極み!

※参考文献
福澤諭吉著『文明論之概略』岩波書店

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「【衆院選】違和感に気づいても、なぜ人は流される?150年前に福澤諭吉が警告した“世論の危うさ”」のページです。デイリーニュースオンラインは、文明論之概略福沢諭吉世論民主主義政治カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る