『豊臣兄弟!』名誉か捏造か…桶狭間の一番手柄・簗田政綱、伝説と史実の狭間で消えた最期
永禄3年(1560年)、織田信長が今川義元を破った、「桶狭間の戦い」。大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも描かれたこの合戦では、毛利新介(演:永田崇人)が義元を討ち取り、歴史に名を残しました。
第4回放送「桶狭間!」の解説は以下の記事で紹介しています。
『豊臣兄弟!』父の仇は討てたのか?銭50貫と草鞋の意味…第4回「桶狭間!」伏線と重要ポイントまとめしかし、この戦いの「一番手柄」だったのは、意外にも簗田政綱(やなだ まさつな/演:金子岳憲)でした。なぜ義元を討ち取った新介ではなく、政綱が一番手柄なのかと疑問に思われた方は多いかと思います。
そこで今回は、政綱の活躍を振り返りつつ、なぜ一番手柄となったのか、そして桶狭間の戦い後の歩みについて紹介します。
政綱の生い立ちと桶狭間の戦い時の活躍簗田政綱の生没年は、残念ながら不明です。はじめは尾張守護・斯波氏の家臣でしたが、斯波氏の衰退に伴って織田信長に仕官したとされています。戦での戦功により、九之坪城の城主となりました。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、政綱が今川義元の本陣を特定し、信長に奇襲作戦を提案しています。
信長が奇襲を決行しようとした際、周囲の家臣は反対しましたが、政綱はこの作戦に賛同。さらに、自ら兵を率いて義元のいる本陣の裏手へ移動したとされています。
戦いの最中には信長を励ましつつ、義元を討ち取るべきだと進言しています。また、自身も織田軍の先陣に加わり、奮戦しました。桶狭間の戦いでのこうした活躍により、沓掛城を与えられました。
※織田軍の奇襲についての考察
【豊臣兄弟!】で近々描かれる「桶狭間の戦い」少数の織田軍が奇襲で勝利…がほぼ創作といえる理由このような政綱の活躍や「一番手柄」とする評価は、創作である可能性が高いと考えられています。
その根拠となるのが、江戸時代の医師・小瀬甫庵(おぜ-ほあん)が記した『甫庵信長記(ほあんしんちょうき)』です。
創られた政綱の活躍『甫庵信長記』は『信長公記』をもとに作成されたものですが、甫庵自身が意図的に創作を加えていることが知られており、信ぴょう性は低いです。それでもこの説が広まった背景には、信長が情報の重要性を理解していた革新的な武将であることを示すため、このエピソードが後世に定着した可能性が考えられます。
※『信長公記』の著者・太田牛一については、以下の記事で紹介しています。
【豊臣兄弟!】ドラマの信長像を決定づけた男…貴重な史料『信長公記』の著者・太田牛一は何者なのかなお、政綱が桶狭間の戦い以前に偵察や地形調査を行っていたという説もありますが、こちらも確たる証拠はありません。
戦後の政綱の動向についても沓掛城の城主になったこと以外の記録がなく、残業ながら不明です。
確かに存在した政綱の子・広正
そんな政綱には、信長の馬廻として仕えた簗田広正という子がいます。
広正は元亀元年(1570年)の小谷城攻めにおいて、佐々成政らとともに殿を務めました。さらに、元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは、目付を命じられています。
天正3年(1575年)には別喜姓と右近大夫を授けられ、別喜右近とも名乗りました。天正6年(1578年)には尾張衆の一人として織田信忠に仕えましたが、翌年に病没しています。
このように、子である広正の活動は比較的詳しく記録が残っている一方で、政綱自身のその後については史料がほとんど存在しません。
そのため、桶狭間の戦い後に病没したのか、あるいは何らかの理由で歴史の表舞台から姿を消したのかは分かっていません。
確かなことが言えるのは、簗田政綱が史実と創作の狭間に位置する、謎の多い人物ということでしょう。
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