『豊臣兄弟!』妻・あさひは売らない!秀吉(藤吉郎)の非情な条件を退けた甚助の悲劇的な末路
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第5回放送からは、小一郎(仲野太賀)たちの妹・あさひ(倉沢杏菜)と夫婦になった甚助(前原瑞樹)。姉・とも(宮澤エマ)と結婚した弥助(上川周作)と共に武士となり、小一郎たちを手伝うことになりました。
陽気なあさひに対して、ちょっと気弱な印象を受ける甚助ですが、秀吉の一族に連なる立場まで上りつめた人物です。
彼の人生は、出世の先に“幸福の絶頂”がある一方、ある命令をきっかけに夫婦が引き裂かれるという急転直下の展開へ。
本記事では、甚助(後に副田吉成)の素性、出世と転落、そして離縁の経緯までを一気に追います。
前原瑞樹演じる甚助。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式Xより。🄫NHK
城主にまで立身出世を遂げるも……甚助は生年不詳、出身は尾張国愛知郡烏森(名古屋市)、出自や生家について詳しいことはわかっていません。
通称は甚兵衛(じんべゑ)または甚左衛門(じんざゑもん)、また与左衛門(よざゑもん)と呼ばれており、甚助という名前は大河ドラマの可能性があります。
いつしか副田吉成(そえだ よしなり)と称するようになりますが、これは秀吉(藤吉郎)の妹婿となったことから、吉の偏諱を貰い受けたものでしょう。
副田の苗字についてもよくわかっておらず、秀吉らの「副え(副将格)だ」という程度の意味で名乗ったのかも知れませんね。
ともあれ秀吉に仕えた甚助改め副田吉成は天正5年(1577年)、小一郎こと羽柴秀長に従って但馬国(兵庫県北部)遠征に従軍。若桜鬼ヶ城(鳥取県若桜町)を攻略します。
その武功によって多伊城(指杭城とも。兵庫県新温泉町)を与えられ、秀長の与力となりました。晴れて城主となった吉成とあさひは、この頃が幸せの頂点だったのかも知れません。
やがて天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発して織田信長(小栗旬)が横死を遂げると、混乱に乗じて多伊城を奪われてしまいます。
命からがら脱出した吉成ですが、同年10月に執り行われた信長の葬儀では奉行を務め、その後の権力継承戦に尽力しました。
妻を売るなど言語道断!秀吉の命令に出家で抗議
秀吉の命令で離縁させられ、家康の正室として嫁がされた朝日姫(画像:Wikipedia)
しかし多伊城を奪われてしまった失態を秀吉は根に持っていたらしく、これが後にあさひと離縁させられる原因になったと『武家事紀』は伝えています。
かくして天正13年(1585年)、秀吉はあさひを徳川家康(松下洸平)の正室として嫁がせる(人質として差し出す)ため、吉成と離縁させてしまったのでした。
【豊臣兄弟!】徳川家康(松下洸平)の妻になる豊臣 妹・あさひ(倉沢杏菜)との出会いと儚い結婚の結末江戸時代の随筆『塩尻』によると、離縁に際して秀吉は、吉成に5万石の加増を条件に出したと言います。しかし吉成は「利益のために妻を売った」汚名をよしとせず、これを断りました。
もちろんこれは事実上の命令であり、逆らって無事に済むはずはありません。そこで吉成は出家して穏斎と号し、故郷の烏森へ帰って隠棲したそうです。
離縁から5年が経った天正18年(1590年)1月14日にあさひは世を去り、吉成も元和元年(1615年)ごろに世を去りました。
戒名は貞応淨慶大徳禅定門(じょうおうじょうけいだいとくぜんじょうもん)、副田の家督は渡辺秀綱(わたなべ ひでつな。九郎右衛門)が養子となって受け継ぎ、その子孫は尾張藩士となったそうです。
終わりに■甚助 / 前原瑞樹
じんすけ / まえはら みずき豊臣兄弟の妹・あさひの夫
のちの副田吉成。天真らんまんなあさひとは良き夫婦となる。弥助同様、小一郎たち行動を共にすることに。
※NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。
今回はあさひの夫となった甚助こと副田吉成について、その生涯をたどってきました。
いくら権力者・秀吉の命令であっても、妻を売り渡すことをよしとせず、出家という形で抗議した姿は武士の意地と言えるでしょう。
本作では気弱そうで、尻に敷かれて見える甚助ですが、あさひに対する愛情は人一倍深いように思えます。今後どのような成長と活躍を魅せてくれるのか、楽しみですね!
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黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』角川選書、2025年5月 横地清『名古屋区史シリーズ 中村区の歴史』愛知県郷土資料刊行会、1983年12月※トップ画像:NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式Xより
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