『豊臣兄弟!』12歳で初産、秀吉の養女も…まつ(菅井友香)が産んだ前田利家(大東駿介)の8人の子供の運命
夫婦の絆で戦国乱世を生き抜き、加賀百万石の祖となった前田利家(大東駿介)とまつ(菅井友香)。二人の間には二男六女で合計8人もの子供が生まれたそうです。
果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」には何人が登場するのか、一挙に紹介したいと思います。
※一説には、まつが生んだ子は二男九女の合計11人とも言われますが、ここでは存在が確認できる8人に絞り込みました。
前田利家とまつの生涯に関しては、こちらの記事で解説しています。
『豊臣兄弟!』強い絆で乱世を乗り越えた前田利家・まつの生涯…死後も神として祀られる尾山神社へ
長女・幸姫
永禄2年(1559年)6月7日生~元和2年(1616年)4月18日没(享年58歳)
まつが12歳という幼さで生んだ長女の幸姫(こうひめ)は、前田対馬守家(加賀八家の一)の前田長種(ながたね)に嫁ぎ、二男一女を生みます。
長男・前田直知(なおとも) 次男・前田長時(ながとき 長女・慶春院(実名不詳。溝口善勝正室)別名を一色殿(いっしきどの)とも言い、また法名から春桂院(しゅんけいいん。春桂院殿月照利犀大姉)とも呼ばれました。
長男・前田利長
永禄5年(1562年)1月12日生~慶長19年(1614年)5月20日没(享年53歳)
幼名は父・利家と同じく犬千代。元服して通称を孫四郎、諱ははじめ前田利勝(としかつ)と称しています。
安土城で織田信長に出仕し、天正9年(1581年)に父が能登国(石川県北部)へ転封されたタイミングで、父の旧領である越前国府中3万3千石を与えられました。
信長の死後は父と共に織田家宿老の柴田勝家に与し、羽柴秀吉と対抗します。しかし後に秀吉へ寝返り、織田政権を乗っ取った秀吉政権下で実績を積み重ねたのでした。
やがて慶長3年(1598年)に秀吉が世を去り、翌慶長4年(1599年)に父が亡くなると、豊臣政権内の権力抗争に巻き込まれていきます。
やがて慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦では実弟の前田利政(後述)と決別し、自身は徳川家康率いる東軍、利政は毛利輝元ら率いる西軍に与しました。
果たして勝利した利長は本領を安堵され、加賀藩の初代藩主となったのです。
次女・蕭姫永禄6年(1563年)生~慶長8年(1603年)没(享年41歳)
伝承によると蕭姫(しょうひめ)は大変な美女であったことから、はじめ豊臣秀吉から側室に望まれたと言います。
秀吉は彼女の気をひくために宝玉を贈ったものの、結局彼女は承諾せず、前田家臣の中川光重(みつしげ)と結婚しました。
ちなみに秀吉が贈ったという宝玉は、中川家の家宝として伝わったそうです。ということは、プレゼントをもらうだけもらって振ったのでしょう。
まったくいい度胸と言うか……秀吉としても、一度贈ったものを「結婚しないなら返せ」とは言えなかったのだと思います。
増山城(富山県砺波市)に移り住んだことから増山殿(ますやまどの)、また出家後は瑞雲院(ずいうんいん)と呼ばれました。
二人の間に子供はいなかったものの、嫡男の中川光忠(みつただ)は利家の八女・福(側室との子)と結婚しており、その家督を継いでいます。
三女・摩阿姫
元亀3年(1572年)生~慶長10年(1605年)10月13日没(享年34歳)
摩阿姫(まあひめ)は11歳となった天正10年(1582年)に柴田勝家の家臣・佐久間十蔵(さくま じゅうぞう)と婚約、越前国北ノ庄城(福井県福井市)へ移住しました。
しかし天正11年(1583年)に起きた賤ヶ岳の合戦で敗れた勝家・十蔵主従が自害してしまいます。この時に侍女のあちゃこが彼女を救出し、両親の元へ戻りました。
14歳となった摩阿姫は天正13年(1585年)に秀吉から見初められ、大坂へ連れられてその側室になったそうです。
豊臣家中では加賀殿・かゞ殿(かがどの)と呼ばれ、後に京都の聚楽第へ移り住んだことから聚楽天主(じゅらくてんしゅ)とも呼ばれました。
文禄3年(1594年)に伏見城(京都市伏見区)が完成すると、城内に設けられた前田邸内へ預けられます。側室を実家へ住まわせることは異例でしたが、これは摩阿姫をダシに利家と密談するための措置だったそうです。
慶長3年(1598年)3月に催された醍醐の花見では第5位の妻として扱われたものの、余命いくばくもない秀吉の存命中に離縁しました。
秀吉の死後に公家の万里小路充房(までのこうじ あつふさ)と再婚。一人息子(後の前田利忠)を生みますが、後に離縁して母子ともに前田家へ戻ります。
そして慶長10年(1605年)に34歳で世を去り、戒名を祥雲院殿隆室宗盛大禅定尼(しょううんいんでん りゅうしつそうせい だいぜんじょうに)と名づけられました。
四女・豪姫
天正2年(1574年)生~寛永11年(1634年)5月23日没(享年61歳)
豪姫(ごうひめ)は生まれて間もない2歳の時に秀吉の養女に出され、秀吉と寧々から秘蔵子として可愛がられたそうです。
300人もの側室を抱えた豊臣秀吉が親バカぶりを発揮した愛娘・豪姫の正体とは?15歳となった天正16年(1588年)に秀吉の猶子であった岡山城主・宇喜多秀家と結婚。そのため備前御方(びぜんのおんかた)、後に南御方(みなみのおんかた)と呼ばれました。
秀家との間には宇喜多秀高(ひでたか)・宇喜多秀継(ひでつぐ)・佐保姫(さほひめ。貞姫、理松院)を出産しますが、元から身体が弱く出産の都度大病をしていたそうです。
これを「キツネが憑りついたせい」だとして、秀吉は石田三成と増田長盛に命じて大々的にキツネ狩りを実施させるほどの親バカぶりを発揮しました。また利家も別個にキツネ憑きを落とす儀式を実施しています。
やがて秀吉・利家が世を去った後の慶長5年(1600年)、世にいう関ヶ原の合戦で夫の秀家は西軍に与して敗れてしまいました。
秀家は薩摩国へ逃亡して島津家に匿われていましたが、慶長7年(1602年)に引き渡されて息子たちと一緒に八丈島(東京都八丈町)へ流刑となってしまいます。
宇喜多家が没落した後、しばらく寧々に仕えていましたが、思うところあって洗礼を受けました。キリシタンとしての名前はマリア、慶長12年(1607年)ごろに実家へ帰ります。
そして寛永11年(1634年)に61歳で世を去り、樹正院殿命室寿晃大禅定尼(じゅしょういんでん みょうしつじゅこう だいぜんじょうに)と戒名を贈られました。
五女・与免天正5年(1577年)生~文禄2年(1593年)没(享年17歳)
与免と書いて「よめ」ではなく「とめ」と読みます。よく「女児はもう止めにして欲しい≒そろそろ男児が欲しい」という思いから、生まれた女児にトメと名づける習慣がありますが、まつは後二人子供を生むのでした。
1歳年長の浅野幸長(あさの よしなが)と婚約していましたが、結婚前に夭折しており、これといった記録は残っていません。
次男・前田利政
天正6年(1578年)生~寛永10年(1633年)7月14日没(享年56歳)
父・利家に従って秀吉に奉公し、慶長4年(1599年)に父から能登国に所領を分け与えられて大名となりました。
しかし慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の合戦では石田三成ら率いる西軍に与したため、敗戦後に改易(所領を全没収)されてしまいます。その後は京都の嵯峨に隠棲して宗悦(そうえつ)と号しました。
裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った戦国武将たちのその後【東軍編】やがて慶長19年(1614年)に勃発した大坂の陣では、徳川家康と豊臣秀頼の両陣営から誘いを受けますが、どちらにも与さず中立を決め込んだそうです。
そして豊臣家の滅亡後、家康から10万石の大名として取り立ててやろうと打診がありました。豊臣家に与しなかった態度を気に入ったからと言われています。
ここで普通なら喜んで飛びつくところですが、利政は「中立を決めたのは、豊臣方に与したくなかったからであり、徳川殿に忠義を尽くすつもりはない」と辞退しました。よほど権力抗争に巻き込まれたくなかったのでしょう。
また異説としては実兄の利長が、関ヶ原で自分を裏切った利政の大名復帰を許せなかったからとも言われています。
そして寛永10年(1633年)に利政が世を去ると、子供の前田直之(なおゆき)は加賀藩主の前田利常(利家の四男で利長の養子)に仕え、利家とまつの血脈を後世に受け継ぎました。
六女・千世天正8年(1580年)5月7日生~寛永18年(1641年)11月20日没(享年62歳)
千世(ちよ)は末っ子だったため、生母のまつから最も可愛がられたそうです。
18歳となった慶長2年(1597年)、秀吉の命令で細川忠隆(ただたか。細川忠興嫡男)と結婚します。
しかし関ヶ原の合戦が始まる直前、戦火を恐れて前田家へ避難したことを咎められ、離縁させられてしまいました。
慶長10年(1605年)に前田家重臣の村井長次(ながつぐ)と再婚。子供はいなかったので織田長光(ながみつ。信長弟・織田長益の孫)を養子にとります。
慶長18年(1613年)に夫が先だってしまうと、菩提を弔うために出家して春香院(しゅんこういん)と号しました。
終わりに今回は利家とまつ夫婦の間に生まれた子供たちを一挙に紹介してきました。昔は多産多死が当たり前だったと言われますが、一人の女性が8人も出産するのは並大抵ではないでしょう。
実にバイタリティあふれる利家とまつの夫婦ドラマも「豊臣兄弟!」における見どころの一つ。これからも楽しみに見守っていきたいですね。
※参考文献:
岩沢愿彦『人物叢書 前田利家』吉川弘文館、1988年10月 小和田哲男 編『戦国の女性たち 16人の波乱の人生』河出書房新社、2005年9月 花ヶ前盛明編『前田利家のすべて 新装版』新人物往来社、2001年10月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


