戒名を与えられた宣教師…遠藤周作『沈黙』ロドリゴ神父の実在モデル、キアラ神父の生涯
実在した『沈黙』のモデル
京王線調布駅から北の住宅街の中にある修道院に、遠藤周作『沈黙』の主人公であるロドリゴ神父のモデルとなった ジュゼッペ・キアラ神父 の墓碑があります。
その墓碑には入専浄真信士霊位 と刻まれています。戒名を持つ宣教師という点だけを見ても、彼の人生がどれほど特異だったかが分かりますね。
あのロドリゴ神父のモデルが存在したこと自体、知らない人も多いと思います。今回は彼の人生について解説します。
キアラ神父の墓碑は一九四三年、キリシタン研究家であるタシナリ神父が雑司ヶ谷霊園で発見し、許可を得て調布へ移されたものです。
調布市はこの墓碑を有形文化財に指定し、禁教政策下の歴史を物語る貴重な資料として保護しています。
東京・伝通院にある「ジョセフ岡本三衛門神父供養碑」(Wikipediaより)
キアラ神父は一六〇三年、イタリア・シチリア島に生まれ。二〇歳でイエズス会に入りました。彼が日本行きを決意した背景には、一六三三年に起きたフェレイラ神父の棄教があったといいます。
フェレイラ神父は、イエズス会日本管区長代理という高位の宣教師だったのですが、拷問に耐えられず棄教したのです。
その知らせは欧州全土に衝撃を与えました。イエズス会は名誉回復のため、殉教覚悟で日本に潜入する宣教師を送り込みます。その一人がキアラ神父でした。
“転び”の真相一六四三年、キアラ神父らは玄界灘の大島に潜入しましたが、上陸直後に幕府に捕らえられ、長崎奉行所を経て江戸へ送られました。
ここで彼は、棄教したフェレイラ神父と再会します。フェレイラは幕府に協力し、キリシタンを追い詰めるには、肉体的な苦痛よりも精神的に追い詰める方法の方が適していると助言していたとされます。
当時の記録によれば、フェレイラと捕らえられた宣教師たちの対話は、イエズス会本部に報告されたといいます。絵画資料も残っており、当時の状況を裏付けています。
その後、キアラ神父は穴吊りの拷問を受け、三日後に「転んだ」と記録されています。
ここだけを切り取って見ると、彼は信仰を捨てた宣教師の一人に見えます。しかし史料をたどると、単純な棄教とは言い切れないことが分かります。
一六四六年、彼は江戸の切支丹屋敷に幽閉されました。その後は奉行の求めに応じ、キリスト教の教理を説明する書を著したとされます(ただしこの書籍は現存しません)。
つまり彼は、完全に信仰を捨ててはいなかったのです。
外面的には棄教しても、内心では信仰を保っていた可能性があるということは、遠藤周作が『沈黙』で描いた 外面の否定と内面の信仰 というテーマと重なります。
“沈黙”のあとに残ったものキアラ神父は一六八五年、八四歳で病死しました。遺体はキリスト教では禁忌とされる火葬に付され、戒名 として「入専浄真信士」 が与えられます。
この戒名の「入専」はジュセンと読み、彼の名であるジュゼッペに由来すると考えられています。そして冒頭で記した通り、墓碑は雑司ヶ谷から調布へと移動したのです。
興味深いのは、イタリアでは彼が殉教者として伝えられている点です。彼は棄教者ではなく、信仰を守った人物として尊敬されてきたのです。
イエズス会の解釈の趣旨としては、こうです。「神は棄教した者の弱さも知っている。日本の信仰の中には殉教をもって守られた強い根が張っている」。
これは遠藤周作が『沈黙』の中で描いた「沈黙の神」の問いに対する、一つの答えでもあるでしょう。
遠藤は日本を、異教が根付くことのない沼として表現しましたが、深い信仰を持つ人たちにとっては、決してそのような絶望の地ではなかったということです。
ジュゼッペ・キアラという人物は単なる“転びバテレン”ではなく、外面と内面の狭間で揺れながらも信仰を模索し続けた一人の人間だったのでしょう。
遠藤周作『沈黙』参考資料:
クリスチャントゥデイ
調布市
画像:Wikipedia
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