【豊臣兄弟!】藤吉郎は「恩」を忘れない!主従は逆転しても恩は消えず…松下之綱との強い絆

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【豊臣兄弟!】藤吉郎は「恩」を忘れない!主従は逆転しても恩は消えず…松下之綱との強い絆

大河ドラマ「豊臣兄弟!」第1回放送「二匹の猿」では故郷を飛び出した藤吉郎(池松壮亮)が8年ぶりに帰郷して、小一郎(仲野太賀)らに放浪中の出来事を話していたのをご記憶でしょうか。

「……わしは松下加兵衛(まつした かへゑ)様という方にお仕えして……」

この加兵衛こと松下之綱(ゆきつな)は実在しており、藤吉郎との主従関係は『太閤記』に伝わっています。

果たしてどんな人物だったのか、紹介したいと思います。

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落合芳幾「太平記英勇傳 松下加兵衛之綱」(部分)

藤吉郎との出会いと別れ

松下之綱は天文6年(1537年)に松下長則(ながのり。源太左衛門、若狭守)の子として、三河国碧海郡松下郷(愛知県豊田市)で誕生しました。

父の長則は槍の名手として知られ、駿河の今川義元(大鶴義丹)や相模の北条氏康(ほうじょう うじやす)、そして武田信玄(高嶋政伸)と各勢力を渡り歩いた典型的な戦国牢人です。

幼名は左助(さすけ)、後に元服して通称を加兵衛、官途名(私称の官職)を兵部(ひょうぶ)としました。

兄弟には松下則綱(のりつな。源左衛門)・長傳(ちょうでん。僧侶)・松下継綱(つぐつな。播磨)そして姉妹二人(飯尾惣右衛門妻ら)がいます。

やがて今川義元に仕えて遠江国頭陀寺城(ずだじじょう。静岡県浜松市)を任され、飯尾連龍(いのお つらたつ)の寄騎を務めました。

藤吉郎が仕えた『太閤記』のエピソードが事実であれば、この時期に二人は出会ったものと考えられます。之綱は藤吉郎を可愛がり、藤吉郎も之綱の期待に応えようと一生懸命奉公に励み、才覚を発揮したことでしょう。

また藤吉郎に武芸や兵法を伝授したとも言われ、それが後の天下獲りに役立ったのかも知れません。

しかし周囲からの嫉妬を抑えかね、之綱は惜しみつつも藤吉郎に暇を出したのでした。短い期間の主従関係ではありましたが、これが之綱の人生に大きな転機をもたらしたことは言うまでもありません。

流転の末に藤吉郎と再会

今川義元の最期。歌川豊宣「尾州桶狭間合戦」より

永禄3年(1560年)に桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られ、家督を今川氏真(うじざね)が継ぐと、最早これまでとばかり今川家を見限る者が続出しました。

父の長則もそんな一人だったのか、槍を担いで国を飛び出していったものと思われます。

いっぽう之綱は今川家に対する忠義の態度を変えることはありませんでした。が、寄親(寄騎の上役。対語は寄子)である飯尾連龍が今川家に叛旗を翻してしまいます。

永禄6年(1563年)に今川方が頭陀寺城へ攻め込み、炎上。之綱は城を追われてしまいました。

やむなく之綱は今川家より独立した徳川家康(松平元康。松下洸平)に仕えますが、新参者が敵の最前線に立たされるのは世の常というもの。之綱はかつての主君であった今川家との死闘を強いられました。

永禄12年(1569年)、氏真が立て籠もった最後の拠点・掛川城(静岡県掛川市)へ攻め込んだ時は、敵将の菅沼帯刀(すがぬま たてわき)を討ち取る武功を立てています。

これによって之綱は遠江国長上郡(静岡県浜松市など)に30貫文(約30石)の知行を賜わりました。

しかし今川家が滅亡した後、東進する徳川家の行く手を阻む武田家との対立は避けられません。そこで之綱は高天神城(静岡県掛川市)の守備を任され、武田勝頼(信玄の後継者)と対峙することになります。

天正2年(1574年)に高天神城が攻め落とされると、之綱は捕虜となってしまいました。経緯はわかりませんが後に解放された之綱は、羽柴秀吉と改名していた藤吉郎から仕官の誘いを受けたのです。

主従は逆転しても、互いを大切に

秀吉の前備を務めた之綱(イメージ)

すっかり出世した藤吉郎と再会したとき、之綱はどんな思いを抱いたでしょうか。

「あーあ、すっかり逆転されてしまったな」と思ったでしょうか。

それとも「昔は目をかけてやったのだから、これだけの出世に相応しい恩返しを期待しよう」でしょうか。

よもや「これからは猿に仕えねばならんのか……屈辱じゃのぅ」などとは思わなかったと思いますが……。

正解は当人に聞くよりないものの、恐らくは藤吉郎の立身出世を、心から喜んだことと思います。

ともあれ快く藤吉郎改め秀吉の家臣となった之綱は、天正3年(1575年)に武田勝頼を迎え撃った長篠合戦において、百の兵を率いて秀吉の前備を務めました。

やがて天正10年(1582年)に織田信長(小栗旬)が本能寺で横死を遂げると(本能寺の変)、秀吉は織田政権の権力を巧みに奪い獲っていきます。

之綱は天正11年(1583年)に丹波国船井郡(京都府京丹波町など)・河内国讃良郡(大阪府四条畷市など)に2,000石の知行を賜わり、のち伊勢国(三重県)の1,000石を加増されました。

天正15年(1587年)の九州平定・島津征伐では秀吉の前備として兵百五十を率いて護衛。厚く信頼されていたのでしょう。

しかし前備の中には、之綱の指揮下に置かれることを快く思わなかった者もいたようです。何ゆえあやつがそれがしの上役なのか……不満の声を感じ取った(あるいは之綱から相談を受けた)秀吉は、不満を持つ者らにあてて朱印状を発給しています。

……松下加兵衛事、御牢人の時、忠節の仁に候間、右儀に、おのおのと同然とはこれあるまじく候……

【意訳】松下加兵衛はわし(秀吉)が牢人していたころ、とても親切にしてくれた恩人なのじゃ。よってそなたらと同格と思ってはならんぞ。

やはり秀吉は若いころに受けた恩義を忘れておらず、主従が逆転してもお互いを大切にしていたのです。

秀吉と同年に亡くなる

同じ天正15年(1587年)に従五位下(じゅごいのげ)の位階と石見守(いわみのかみ)の官職を叙せられた之綱は、丹波国(京都府中部)に3,000石を加増。これで6,000石となりました。

やがて秀吉が天下一統を成し遂げた天正18年(1590年)、之綱は遠江国久野(静岡県袋井市)に10,000石を加増。16,000石の大名となったのです。また備州長船康光(びしゅう おさふね やすみつ)の太刀を与えられたと言います。

そんな之綱は慶長3年(1598年)2月30日。秀吉が亡くなるおよそ半年前のことでした。享年62歳。

戒名は綱元院殿天翁長珊大居士(こうげんいんでん てんおうちょうさんだいこじ)または正寿院殿故石見守真誉長参大居士(しょうじゅいんでん こいわみのかみ しんよちょうさんだいこじ)。墓所は久野の頭陀寺にあります。

家督は嫡男の松下重綱(しげつな。右兵衛尉)が継ぎ、徳川家康に仕えて活躍するのでした。

終わりに

【松下家略系図】

……松下高長(西條から改姓)-松下長信-松下國長-松下國綱-松下定綱-松下長尹(ながまさ)-松下長則-松下之綱-松下重綱-松下長綱-松下長光-松下重長-松下之郷(ゆきさと)-松下之喬(ゆきたか)-松下之矩(ゆきのり)-松下千代松(早逝)

※『寛政重脩諸家譜』巻第412 宇多源氏(佐々木庶流)松下より。

今回は藤吉郎が初めて仕えた松下加兵衛こと松下之綱について、その生涯をたどってきました。一度は別れても再び出会う絆の強さに、感動を覚えた方もいるのではないでしょうか。

ちなみに松下家は宇多源氏・佐々木氏の末裔であるため、四目結(よつめゆい)の家紋を使ってきました。それが秀吉から五七桐(ごしちのきり)紋と、十六葉菊(じゅうろくようぎく)紋を賜わっています。どちらも秀吉の大切な紋ですから、よほど之綱を大切に思っていたのでしょう。

果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では松下之綱が登場するのか、登場するなら誰がキャスティングされるのかも注目です!

※参考文献:

『寛政重脩諸家譜 第3輯』国立国会図書館デジタルコレクション 神谷昌志『見る読む浜松歴史年表』羽衣出版、1995年7月冨永公文『松下加兵衛と豊臣秀吉― 戦国・松下氏の系譜』東京図書出版会、2002年11月

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