朝ドラ「ばけばけ」事件に巻き込まれ逮捕、台湾へ…庄田多吉(濱正悟)のモデル・本庄太一郎の生涯
朝ドラ「ばけばけ」には、多くの魅力的が人物が登場します。
庄田多吉もそのひとり。彼のモデルとなったのが、実在した教師・本庄太一郎です。
太一郎は教育者として松江に着任。校長まで上り詰めますが、激動の人生に翻弄されることとなります。
太一郎は何を思い、誰と出会い、どう生きたのか。太一郎の生涯を見ていきましょう。
生涯の友である西田千太郎との出会いと歩み
文久3(1863)年8月13日、島根県松江の武士の家に生まれました。父は本庄久兵衛、母はヨシと伝えられています。
明治9(1876)年9月、太一郎は教育伝習変則中学(松江中学)に入学。同期には、西田千太郎(「ばけばけ」の錦織友一のモデル)がいました。
朝ドラ「ばけばけ」病に侵され奪われた未来…錦織友一(吉沢亮)のモデル、大盤石こと西田千太郎の生涯明治15(1882)年、太一郎は同行の松江中学の授業補助に就任。在学中の成績が認められたことがわかります。
ドラマでは、モデルの庄田太吉が東京帝国大学に入学したことになっていますが、実際は母校で授業補助として活動してました。
明治18(1885)年、同じく授業補助であった西田千太郎と共に上京。ともに文部省の検定試験を受験して教員となる資格を得ました。
当時の教員資格は、帝国大学卒業者に与えられていたほか、同校の教員検定試験に合格することで取得が可能でした。
翌明治19(1886)年、太一郎は初任地である東京尋常中学校に着任。教員としてのキャリアをスタートさせます。
明治22(1889)年には、東京大学文科特約生となり、特設課程で学びました。帝国大学在籍という設定はここから着想を得たようです。
やがて太一郎に試練が訪れることとなります。
戦う教育者!疑獄での逮捕と台湾での活動
明治後期、教科書は検定を通過したものを府県が採用する仕組みでした。
当然、採用に関して教科書側と採用側では利害関係が発生。贈収賄事件が発生しやすくなります。
政府は贈収賄の一斉摘発を開始。世にいう教科書疑獄事件です。
この事件を皮切りに「国定教科書制度」への空気を一気に強め、政府は1903(明治36)年4月に制度改正へ踏み切ります。
この事件に絡み、警察は太一郎を逮捕。しかし翌明治36(1903)年9月には嫌疑が晴れて無罪となりました。
無罪とはなったものの、逮捕された影響がどれほどだったのか…太一郎の心境は推して知るものがあります。
明治39(1906)年、太一郎は欧州視察へ旅立ちます。
翌明治40(1907)年5月、太一郎は台湾総督府の中学校兼国語校長に就任。人事の背景には、台湾統治を担う後藤新平との関係がありました。
太一郎は後藤の下で欧州視察や情報収集に従事していたようです。台湾において統治の教育部門を動かす立場として活動しました。
しかし太一郎は体調を崩したようで、台湾での勤務は長く続きませんでした。
明治44(1911)年5月、太一郎は病気を理由とする退職願を提出。役職を免官となって日本に帰国しました。
しかし病気の詳細は記録に残っておらず、心情的な理由での退職も推測されています。
国内の教育現場での再出発
太一郎は外地の統治機構を離れて国内の学校現場への復職を目指します。
大正4(1915)年4月、太一郎は長野県立松本中学校の校長に着任。しかしここでも再び問題が起こります。
規律を重んじる太一郎は、統一主義に基づいて生徒たちを管理する方針でした。これに基づき政党政治を否定する言動を取っていきます。
この「中心へ集約する」姿勢は、学校の自治的空気や、生徒側の反発と衝突しやすい。松本での批判点とも重なり、自治志向を本荘が否定した可能性が述べられています。
生徒たちが反発した結果、校長排斥運動が勃発しました。
新聞のインタビューには「生徒の層ストライキをくった」と記載。結局、太一郎は退職へ追い込まれます。
校長としての統率が、当時の生徒文化や地域世論と噛み合わなかった。事件の背後には、単なる人間関係ではなく、「教育を上から一つに束ねたい」思想と、「学校を自分たちの場として守りたい」側の緊張があった、と読めます。
松本を去った太一郎は郷里へ戻ります。
大正6(1917)年、太一郎は第13回衆議院議員選挙で松江市から無所属で立候補。しかし結果は落選で、有効投票数689票のうちは260票だった、とされています。
選挙においては、後藤新平の後援を受けていました。
学校現場で反発を受けた「統一」路線を、今度は政治で通そうとしたようにも地元での「信用勢力は一向に振るはない」とも書かれ、足場の弱さがにじみます。
ただし、落選は終わりではありませんでした。
大正8(1919)年、太一郎はそれまでの経験を買われて神戸市教育課長に着任。大正14(1925)年まで奉職します。
太一郎は小学校舎拡充計画を推進。加えて旧「学区」時代の教員を一掃し、自身が主導の人事を強行して市議会で批判が上がります。
しかし神戸市は太一郎を問題視しませんでした。
学区を廃止して教育行政を一元化するという市の方針に、彼の強権的運用が合致していたようです。
松本で火種になった「統一」志向が、都市行政の側ではむしろ歓迎され、成果として回収されたのは一種の皮肉的結果でした。
昭和2(1927)年1月11日、太一郎は東京で病没。享年65。教育行政に行き、その職分に全てを捧げた生涯でした。
政治家・後藤新平。太一郎は後藤の後ろ盾で選挙に打って出たが…
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