【豊臣兄弟!】後に藤吉郎(秀吉)と対立し非業の末路…戦国武将・佐々成政(白洲迅)の壮絶な生涯

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【豊臣兄弟!】後に藤吉郎(秀吉)と対立し非業の末路…戦国武将・佐々成政(白洲迅)の壮絶な生涯

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」 の第6回放送「兄弟の絆」で、織田信長(小栗旬)の命を受け、大沢次郎左衛門(松尾諭)の従者の荷に、刃先に毒が塗られた武器をこっそり忍ばせていた佐々成政(白洲迅)。果たして彼は何者なのでしょうか。

成政は黒母衣衆を率いた“信長のエリート”であり、のちに秀吉とも真っ向からぶつかり、最後は壮絶な最期を迎える人物。

今回は、その成政がどんな経歴と野心を背負って登場したのかを押さえ、「豊臣兄弟!」がもっと面白くなる視点を整理していきます。

なお、今回の第6回放送「兄弟の絆」でキーマンとなった大沢次郎左衛門、前田利家(大東駿介)に関してはこちらの記事で紹介しています。

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白洲迅演じる佐々成政。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

黒母衣衆を率いたエリート

佐々成政は天文8(1539年)、比良城主(名古屋市西区)を務める佐々成宗(なりむね)の三男として誕生しました。※生年については諸説あります。

天文19年(1550年)に織田信長(小栗旬)へ仕えますが、兄たち(佐々政次・佐々孫介)が相次いで討死したことから、永禄3年(1560年)に家督を継ぎました。

武勇に優れていたため永禄10年(1567年)に信長が編成した黒母衣衆に組み込まれ、その筆頭に抜擢されます。なお同時期に編成された赤母衣衆は前田利家(大東駿介)が筆頭として率いました。

その後も信長に従って武功を重ね、足利義昭を奉じての上洛や伊勢進攻、浅井・朝倉攻めなどで活躍します。

しかし天正2年(1574年)の長島一向一揆では長男の松千代丸(まつちよまる)が討死するなど、決して無傷ではありませんでした。

柴田勝家の与力として北陸方面へ進撃

歌川国芳「太平記英勇傳 佐田陸奥守有正(佐々成政)」

天正3年(1575年)の長篠合戦では前田利家らと協力して鉄砲隊3,000を率いて武田勝頼の軍勢を撃破。やがて越前国を征服した信長により、柴田勝家(山口馬木也)の与力につけられます。

勝家の与力として北陸方面軍に配属された成政は前田利家・不破光治(ふわ みつはる)と共に府中三人衆と呼ばれました。

三人衆は与力でありながら半ば独立した勢力を持ち、情勢に応じながら北陸と上方を行き来しながら遊撃隊的な役割を担います。

そして前進を続けた先に「越後の龍」こと上杉謙信との対決に臨み、天正5年(1577年)9月の手取川合戦では敗退を余儀なくされました。

しかし天正6年(1578年)3月に上杉謙信が急死すると形勢が逆転、ついに加賀国を平定し、能登国や越中国へ進出したのです。

本能寺の変で動揺

佐々成政(画像:Wikipedia)

謙信の後を継いだ上杉景勝との抗争はなおも続き、ついに越中国を平定した北陸方面軍は、上杉の本拠地である春日山城(新潟県上越市)に迫る勢いでした。

しかし天正10年(1582)6月に京都で本能寺の変が発生。明智光秀の謀叛によって信長が横死を遂げたことで、北陸方面軍に動揺が走ります。

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このまま上杉攻略を継続すべきか、京都へ引き返して仇を討つべきか……そもそも、いま轡を並べている仲間たちが、明智の調略を受けていないとも限りません。

互いに疑心暗鬼となった諸将は、それぞれ自分の拠点に戻ってしまい、力が分散されてしまいました。そこへ上杉の反攻が始まり、それを防ぐために成政は手いっぱいとなってしまったのです。

柴田勝家は北陸の拠点をすべて放棄してでも仇討ちを果たす決断を下したものの、逸早く行動を起こした羽柴秀吉(池松壮亮)に先を越されてしまいました。

秀吉と対立・二度の降伏

さらさら越えの雄姿。歌川芳形「英雄八景之内笹良越暮雪」

光秀を討ち取った後、信長の後継者を決める清須会議で秀吉と勝家の対立が決定的になると、成政は勝家を支持します。

翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳合戦では、成政は勝家に与しました。しかし上杉対策で戦力が割けなかったため、わずかな援軍を出すにとどめています。

そして勝家が敗死すると成政は秀吉に降伏。娘を人質に差し出して自身は出家し、秀吉から越中国を安堵されました。このことから「成政の裏切りで勝栄は滅んだ」という風説が流れたそうです。

織田政権をまんまと乗っ取った秀吉を快く思わない徳川家康(松下洸平)が反秀吉姿勢を明確にし、天正12年(1584年)に小牧・長久手合戦が勃発しました。

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成政ははじめ秀吉に従っていたものの、途中で家康に寝返っています。越中国から加賀国の前田利家を攻撃したものの撃退され、また上杉景勝からの攻撃もあって苦戦を強いられることになりました。

やがて秀吉が織田信雄(のぶかつ。信長次男)と和睦し、戦う大義名分を失った家康も秀吉と和睦してしまいます。なおも継戦の意志を持っていた成政は、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)を越えて(さらさら越え)家康に再戦を訴えました。

しかし家康に戦う意思はなく、成政は仕方なく越中国に帰ります。二度にわたる成政の敵対を許せなかった秀吉は天正13年(1585年)に10万の軍勢を率いて成政を完全包囲しました。

成政は信雄の仲介で二度目の降伏。命こそ奪われなかったものの、所領のほとんどを没収。妻子と共に大坂へ移住させられたのです。

肥後一国の大名に返り咲くが……

落合芳幾「太平記英勇傳 佐々陸奥守成政」

かくして大名としての政治生命を断たれたかに見えた成政ですが、天正15年(1587年)の九州征伐で武功を立てたことから、肥後国を丸ごと与えられました。

実に気前がいいですね。また裏切らないといいのですが……今度は裏切りませんでした。ただし成政は、ここでやらかしてしまいます。

秀吉は領民の反感を買わないよう、急激な改革や苛烈な統治を行わないよう指示しました。しかし病を得ていた成政は、死後の憂いを断っておきたかったのか、いきなり検地に着手したのです。

これが肥後領民の怒りを買い、隈部親永(くまべ ちかなが)ら国人衆の一斉蜂起(肥後国人一揆)を招いてしまいました。

一揆を自力で鎮圧できず、多大な犠牲を出してしまった成政は謝罪しても許されず、ついに切腹を命じられます。

このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり

※成政の辞世

【意訳】厄難と妄想をため込んだ鉄の鉢と袋≒自分の腹を、今こそ破ってすべてぶちまけてやろう。

成政は脇指で自分の腹を横一文字に切り裂き、手を突っ込んで内臓をつかみ出し、それを天井に投げつけました。

どうせ死ぬなら、この世の置き土産として、自分を破滅に追いやった厄難を天下にばらまいてやろうとでも思ったのでしょうか。

時に天正16年(1588年)閏5月14日、実に壮絶な最期でした。戒名は成政寺庭月道閑大居士、墓所は慈眼寺(京都市上京区)などにあります。

終わりに

今回は佐々成政について、その生涯をたどってきました。何度も秀吉に敵対し、それでも肥後一国を与えられながら、失政の咎で切腹に追い込まれた最期に無念を禁じ得ません。

果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、小一郎や秀吉とどのような関係を描いていくのか、白洲迅の好演に期待です。

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※トップ画像:NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式Xより

※参考文献:

萩原大輔『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年8月 花ヶ前盛明 編『佐々成政のすべて』新人物往来社、2002年2月

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