縄文人、すでに「35cm定規」持っていた!実は“共通の単位”で巨大建築を設計した縄文時代
「縄文時代」と聞いて多くの人がイメージするのは、「自然の中でその日暮らしをする人々」の姿かもしれません。しかし近年、その原始的なイメージを塗り替えるほど合理的で、高い設計能力を持った人々の姿が明らかになってきました。
文字を持たなかった彼らが、実は現代の家づくりにも通じるような「共通の単位」を持ち、さらには足し算や掛け算に近い概念まで使いこなしていたとしたら…。
遺物に隠された、知的な縄文人の足跡を辿ってみましょう。
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直径1メートルもの巨大な栗の柱が、正確に「4.2メートル」間隔で並ぶ大型掘立柱建物。測量機器も設計図もない時代に、なぜこれほど精密な配置が可能だったのでしょうか?
その鍵は彼らの独自の物差し「縄文尺(35cm)」にありました。
設計の秘密:35cm×12=420cm (4.2m)
この35cmという長さには諸説ありますが、縄文人の体の一部、例えば大人の「肘から手首まで」の長さを単位にした可能性があると考えられています。自分の身体を定規にすることで、誰でもどこでも同じ長さを測れるようにしたのです。
このように自分の身体を基準にする測り方は、古代西洋の「キュビット(肘から中指先まで)」が有名ですが、日本でも後に、親指と人差し指を広げた長さを2倍にした「尺」や、親指の幅を基準とする「寸」といった単位が生まれました。
家族で住む小さな家なら多少のズレは問題ありませんが、ムラ全体で建てる共同施設では「共通のルール」が不可欠です。「柱の間隔は縄文尺で12個分だ!」という合言葉があったからこそ、何人もで力を合わせ、寸分狂わぬ建物を完成させることができたのではないでしょうか。
建築だけじゃない。生活に根付いた「数の概念」それは、単なる偶然では?と思うかもしれませんが、彼らが「数」を明確に意識し、生活の中で大切にしていた証拠は、身近な遺物にもはっきりと残されています。
その代表的な例が、縄文時代のストーンサークルである秋田県の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)から出土した、手のひらサイズの粘土板「土版(どばん)」です。
土版とは祭祀などで使われた「祈りの道具」とされるもので、多くは抽象的な模様や顔が描かれています。
大湯環状列石 土版(表)出典:JOMON ARCHIVES(鹿角市教育委員会所蔵)
しかし、この土版は極めて特殊です。表面に開けられた「孔(あな)」の配置を順に数えていくと、驚くべき法則性が浮かび上がるのです。
口:1つ 目:2つ 右胸:3つ、左胸:4つ 正中線:5つさらに裏面には、左右の「耳」と思われる位置に3つずつ孔が開けられており、合わせると「6」になるのです。
大湯環状列石 土版(裏)出典:JOMON ARCHIVES(鹿角市教育委員会所蔵)
1から5までの数字が順番に並び、さらに「3が2つで6」という足し算や掛け算のような概念。これらは偶然の一致ではなく、彼らの頭の中には、明確な「数の体系」が存在していたと考えられます。一説には、これは子どもに数を教えるための「教育ツール」だったとも言われています。
こうした数の理解は、ごく一部の土偶のデザインにも息づいています。 一見、単なる飾りと思われる孔の模様が、意識して数えると規則的な数を成しているのです。また、精巧な文様が施された土器などは、入念な計算やバランス感覚なしには形にできません。
縄文人は、ただ自然に身を任せていたわけではなく、自分たちの身体を基準にして長さを測り、数を数え、仲間と協力して理想の暮らしを作り上げていたようです。
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