幕末の寺に残る「16歳の数学少女」 ――史料でたどる、江戸時代に消えた“和算少女”たちの痕跡
江戸時代の数学史をひもとくと、そこに並ぶのは圧倒的に男性の名です。関孝和をはじめ、和算の中心にいた人物たちはほとんどが男性でした。けれども、史料を丁寧に見ていくと、その中にわずかながら、確かに「数学少女たち」の痕跡が見えてきます。
その姿を、現存する史料を手がかりにたどってみます。
明星輪寺に残る16歳の名岐阜県大垣市の明星輪寺には、1865(元治2)年に奉納された算額が現存しています。奉納者は「浅野孝光門人 浅野源十郎 他」と記され、地元の和算塾の門人たちによるものと考えられます。
この算額には複数の問題が掲げられていますが、その第三問に
「河合澤女 行年十六」
と刻まれています。16歳の少女であることを明示する、きわめて具体的な記録です。ほかにも女性名と見られる「奥田津女」、さらに少年の名も並び、男女の子どもたちが門人として名を連ねていたことが分かります。
和算・算額研究家の深川英俊氏によれば、河合澤女が掲げた問題は、円や楕円を含む幾何学的構成を要する本格的な内容で、遊び半分で扱える水準ではありません。少なくとも、彼女が相応の数学的訓練を受けていたことはうかがえます。
しかし、記録はそこで途切れます。河合澤女がその後どのような人生を歩んだのかは分かっていません。残るのは、「元治2年、16歳の少女が和算塾の一員として難題を奉納した」という事実だけです。
18世紀に現れた和算書『算法少女』明星輪寺の算額からおよそ1世紀さかのぼる1775年(安永4)年、『算法少女』という和算書が刊行されました。
三巻一冊構成の和算書で、撰者は「壺中隠者」、編者は「平章子」と記されています。序文によれば、娘が父の協力のもとで著したとされ、父娘による協働のかたちが示されています。
後世の研究では、壺中隠者は上方出身の町医者・千葉桃三である可能性が高いとされ、娘・平章子に算法を教え、その内容をまとめたのが『算法少女』であるという見方が有力です。実際の数学的内容は当時の和算の標準的・先進的技法を含み、理論の中心は父に依拠していると考えられています。
それでも、本書は「平章子」という少女の名を前面に掲げ、「少女が学びながら解法を身につけていく」という構成で世に出されました。
現在知られている限り、『算法少女』は江戸期の和算書の中で女性名義で刊行された唯一の例と位置づけられることが多く、和算史上きわめて特異な存在です。少女名義が純粋な演出だったのか、それとも当時実際に高度な数学を学ぶ少女が一定数存在したことの反映なのかについては、明確な結論は出ていません。
寺子屋と商家が支えた少女たちの数学
江戸時代、庶民教育を担った寺子屋では、「読み・書き・算盤」が基本のカリキュラムとして男女ともに教えられていました。寺子屋は男女共学で、一斉授業ではなく、師匠がそれぞれの子どもの習熟度に応じて指導する形が一般的でした。
江戸時代、全国に自然発生的に広まった「寺子屋」ではどんな勉強をしていたのか?
寺子屋で用いられた往来物は現存するだけでも7000種類以上あり、そのうち約1000種類は女子用と分類される教材です。少女が教育の対象として広く想定されていたことが分かります。
商業が盛んな地域では、商家の娘も帳簿管理や取引に必要な計算能力を求められ、算盤教育に力を入れる寺子屋もありました。少女たちは日常の中で、実務のための数学に触れていたと考えられます。
一方で、和算家として名を残すためには、塾の運営や書物の出版、算額の奉納など、公の場で実績を示す必要がありました。出版や保存、記録の主体は多くの場合、男性や家の当主に偏っており、女性や子どもは「学んではいても、名前が表に出にくい構造」に置かれていました。
「消えた」のではなく「残らなかった」名前和算史において、女性数学者として広く知られる名はごく限られています。しかし、それは女性が存在しなかったことを意味しません。
明星輪寺の算額には、河合澤女や奥田津女といった少女・女性の名が刻まれています。『算法少女』には、平章子という少女の名が撰者・編者として明記されています。
少女の名が数学と並んで刻まれている。少女の名義で数学書が出ている。これらは確認できる事実です。
しかし、彼女たちがどのような家庭に生まれ、どの程度まで数学を学び、その後どのような人生を送ったのかをたどる記録は、ほとんど残されていません。
歴史は、残された史料の積み重ねから組み立てられます。出版や奉納、保存の仕組みに乗らなかったもの、あるいは乗っても後世まで残らなかったものは、「なかったこと」として扱われやすい。
その意味で、「数学を学んだ少女たちが消えた」のではなく、「彼女たちの姿を記す記録が十分に残らなかった」と考える方が、史実に即しています。
史料の隙間から見える「数学少女」たち明星輪寺の算額と『算法少女』は、時代も性格も異なる史料ですが、一つの共通点を持っています。少女の名が、数学の問題や和算書の編者として、はっきりと刻まれていることです。
彼女たちが江戸の数学界の中心だったとは言えません。しかし、少なくとも周縁に、確かに存在していたことは、現存する木板と書物が証言しています。
江戸の空の下で、筆をとり、円や三角形を描き、答えを考えていた少女たち。その姿は、史料の隙間からかすかに見えるだけです。
けれども、一度その存在に目を向ければ、「いなかった」と言い切ることはできません。数学史の余白に刻まれた少女たちの名は、今も静かに問いを投げかけています。
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小寺裕『和算書「算法少女」を読む』(2009 筑摩書房) nippon.com「幕末の16歳少女が大学数学専攻以上の難問を解く」日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan



