『豊臣兄弟!』で竹中半兵衛(菅田将暉)ついに登場!若くして無念の死を遂げた名軍師の生涯
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第8回「墨俣一夜城」で、ついに姿を現した竹中半兵衛(たけなかはんべえ 演:菅田将暉)。後に、天賦の才能を開花させ、豊臣秀吉(池松壮亮)の軍師として活躍する男です。
半兵衛の人生は最初から順風満帆だったわけではありません。半兵衛はどんな家に生まれ、どんな戦国の波に揉まれて“軍師”になっていったのか。
今後、『豊臣兄弟!』の劇中でもキーマンとなることは間違いない、半兵衛の生涯をたどっていきましょう。
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斎藤道三時代
麿赤兒演じる斎藤道三。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
竹中半兵衛は天文13年(1544年)9月11日、美濃国大御堂城(岐阜県大野町)の城主を務めていた竹中重元(しげもと)の子として誕生しました。
元服してはじめ竹中重虎(しげとら)と称し、後に竹中重治(しげはる)と改名します。半兵衛とは通称で、成人男性が諱(実名)を呼ぶことをはばかる当時の習慣からつけたものです。
父子ともに「美濃のマムシ」こと斎藤道三(麿赤兒)に仕えており、弘治2年(1556年)に勃発した長良川の合戦で初陣を飾りました。
この合戦は斎藤道三の嫡男である斎藤義龍(DAIGO)が父を討つために謀叛の兵を挙げたもので、竹中父子は道三に忠義を貫きます。
半兵衛は父が出陣して不在となった大御堂城を守り、巧みな采配で斎藤義龍の軍勢を撃退しました。
独立から義龍に臣従
DAIGO演じる斎藤義龍。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
道三が敗死した後は斎藤家から独立します。永禄元年(1558年)には父が岩手城(岐阜県垂井町)の岩手弾正(いわで だんじょう)を攻略。永禄2年(1559年)には父が新たに築いた菩提山城(岐阜県垂井町)へ本拠地を移転しました。
永禄3年(1560年)に父が世を去る(隠居説もあり)と家督を継ぎ、斎藤義龍に臣従することを決断します。
たとえ主君の嫡男であっても、主君を討った謀叛人である義龍に仕えるのは、相当な葛藤があったことでしょう。また義龍としても素直に受け入れがたいものの、半兵衛の才覚を評価して受け入れたものと考えられます。
斎藤竜興から稲葉山城を奪取するが……
濱田龍臣演じる斎藤竜興。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
永禄4年(1561年)に義龍が急死すると、その嫡男である斎藤竜興(濱田龍臣)に引き続き仕えました。
斎藤竜興の代になると、家中の動揺に乗ぜんとばかり、尾張国の織田信長(小栗旬)がしばしば美濃へ侵攻するようになります。
永禄6年(1563年)には半兵衛も織田勢と戦い、巧みに戦術を駆使して織田勢を撃退しました。
しかし竜興は勝利に驕って酒色に溺れ、政務を顧みなくなってしまいます。それを諫めた半兵衛や西美濃三人衆を遠ざけ、聞く耳を持ってくれません。
西美濃三人衆 安藤守就(田中哲司)通称は伊賀守。半兵衛に協力する。 稲葉良通(嶋尾康史)法名の一鉄は頑固一徹の語源に。 氏家直元(河内大和)法名の卜全(ぼくぜん)で有名。 斎藤竜興から信長に寝返り!『豊臣兄弟!』に登場の“美濃三人衆”が辿ったそれぞれの末路このままでは美濃が滅ぼされてしまう……前途を案じた半兵衛らは、永禄7年(1564年)2月6日、竜興の不在を狙って稲葉山城(後の岐阜城)を攻め獲ってしまいます。
わずかな手勢で周到に計画を進め、竜興の寵愛をいいことに政治を誤らせた斎藤飛騨守(ひだのかみ)ら6名の佞臣を討ち取ったため、竜興は恐れをなして逃亡しました。
ここで講談などでは「城を奪ったのは、あくまで殿(竜興)をお諫め申し上げるため」として、速やかに稲葉山城を返還するのですが、実際は半年ほど籠城・抵抗しています。
結局は多勢に無勢で稲葉山城を奪還されてしまったそうで、その後は身を潜めて隠遁生活を送りました。
そして永禄10年(1567年)に稲葉山城が信長に攻略され、斎藤竜興は再び逃亡。ここに戦国大名としての斎藤家は終焉を迎えます。
秀吉の与力として才覚を発揮
斎藤家の滅亡後、半兵衛は北近江の浅井長政(中島歩)の客将として、東浅井郡草野に3,000貫で迎えられました。
しかし水が合わなかったのか約1年で辞して旧領の岩手(岐阜県垂井町)へ戻って再び隠棲生活を送ります。
やがて元亀元年(1570年)に木下藤吉郎秀吉が信長に対して「半兵衛を与力に加えたい」と要請し、それが認められました。
講談などでは秀吉が三度礼儀を尽くす「三顧の礼」で半兵衛を迎え、半兵衛も「信長ではなく、秀吉になら仕えたい」と答えたエピソードが紹介されています。知略を駆使したため今孔明(現代に甦った名軍師・諸葛亮孔明の意)と呼ばれたことも、イメージ作りやエピソード挿入に影響したのでしょう。
しかし先の(秀吉の要請に対して信長が許可した)やりとりから、元は信長の家臣であったのが、秀吉の与力としてつけられたものと考えられます。
かくして半兵衛は牧村利貞(まきむら としさだ)・丸毛兼利(まるも かねとし)と共に秀吉の与力となりました。
当時の信長は浅井長政を攻略するべく北近江に乗り出しており、半兵衛は1年ほど浅井家中の禄を食んでいた人脈と経験を活かして、浅井方に与していた長亭軒城(ちょうていけんじょう。岐阜県関ケ原町)や長比城(たけくらべじょう。滋賀県米原市)の調略に成功します。
また姉川の合戦(元亀元・1570年7月30日)では安藤守就の部隊に属し、後に秀吉の与力として横山城(滋賀県長浜市)の守備に当たりました。この頃に正式な与力となったのでしょう。
若き命を戦陣に散らした最期
やがて秀吉が信長の命によって中国遠征の途につくと、半兵衛は調略を駆使して天正6年(1578年)5月24日に備前八幡山城(兵庫県赤穂市?岡山県赤磐市?)を攻略。この武功を信長から賞され、銀子100両を賜わったと言います。
また秀吉に仕えていた黒田官兵衛こと黒田孝高(倉悠貴)が、謀叛を起こした荒木村重(トータス松本)の説得に赴いて捕らわれてしまった際、信長は「官兵衛は荒木に寝返った」と思い込んでしまいました。
そこで人質にとっていた官兵衛の嫡男である松寿丸(後の黒田長政)を斬るよう秀吉に命じますが、半兵衛は松寿丸を家臣である不破矢足(ふわ やたり)の屋敷に匿います。信長には偽の首を差し出したのでしょう。
後に救出された勘兵衛は、半兵衛の計らいに心から感謝し、半兵衛から家紋をもらい受けました。家紋をいただくことは「あなたの分家になります≒下位に立ちます」というリスペクトの意思表示です。
命を懸けた友情の首実検!戦国時代の天才軍師、黒田官兵衛と竹中半兵衛の絆が胸熱すぎる!かくして半兵衛と官兵衛の「二兵衛」が秀吉の両脇を固める軍師となり、ますます活躍するかと思った矢先、天正7年(1579年)4月に半兵衛が病に倒れてしまいました。
元から病弱だったそうで、秀吉は療養するよう勧めますが、半兵衛は「武士たる者は戦場で死んでこそ本望」とばかり好意を辞退。そして6月13日に36歳という若さで世を去ってしまったのです。
終わりに
菅田将暉演じる竹中半兵衛。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
今回は秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛について、その生涯をたどってきました。まだまだこれからという時に世を去ってしまったのは、無念極まりなかったことでしょう。
天才的な軍略家であり、若くして世を去った悲劇性から様々な伝説が生み出された半兵衛ですが、どれもこれも「あの半兵衛ならやりかねない」という人々の期待が感じられます。
果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では菅田将暉がどんな半兵衛を演じてくれるのか、そしてどんな奇想天外の策略を繰り出すのか、今から楽しみですね!
『豊臣兄弟!』理不尽すぎる粛清…15歳の美少女・駒姫、罪なき処刑へ——「秀次事件」の悲劇※参考文献:
池内昭一編『竹中半兵衛のすべて』新人物往来社、1996年1月 菊地浩之『豊臣家臣団の系図』角川新書、2019年11月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan



