朝ドラ「ばけばけ」祖先の神々を尊べ!ヘブン先生の言葉に魅せられ…正木清一のモデル・ 石原喜久太郎の生涯

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朝ドラ「ばけばけ」祖先の神々を尊べ!ヘブン先生の言葉に魅せられ…正木清一のモデル・ 石原喜久太郎の生涯

朝ドラ「ばけばけ」には、多くの魅力的な人物が登場します。

松江中学に通う生徒の正木清一もその1人。彼のモデルとなったのが、のちに衛生学者となる石原喜久太郎でした。

喜久太郎は松江の島根県尋常中学校で、ヘブン先生のモデルであるラフカディオ・ハーンから英語を学び、のちに学問の世界で羽ばたく足掛かりとします。
※参考記事:

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喜久太郎はその後、東京帝国大学に進学。衛生学者として日本を代表する科学者の1人となりました。

喜久太郎は誰と出会い、どのような人生を歩んで行ったのでしょうか。

石原喜久太郎の生涯について見ていきましょう。

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朝ドラ「ばけばけ」公式サイトより

生家は松江でも富裕な鉄師だった?それとも…

明治5(1872)年9月25日、石原喜久太郎は島根県松江市で石原庄太郎の次男として生を受けました。

松江藩の鉄師(製鉄業者)には、石原氏という家がありました。関わりこそ不明ですが、喜久太郎の実家が富裕な商家や士族であった可能性があります。

環境こそ不明ですが、幼少期から喜久太郎は勉学に力を入れていたようです。

明治20(1887)年ごろ、喜久太郎は松江の島根県尋常中学校に入学。同校の修業年限は5年であり、おそらくこの頃には入学していたと推定されます。

当時の中学に進学するのは、学問だけでなく実家がそれなりの収入を持つ家がほとんどでした。

喜久太郎は優れた学友たちに囲まれながら、学問を学び将来を思い描いていたと思われます。

そんななか、明治23(1890)年9月、ラフカディオ・ハーンがアメリカから来日。松江の島根県尋常中学校の英語講師となります。

喜久太郎にとって衝撃だったのはハーンの態度でした。

天長節(天皇誕生日)の際、ハーンは御真影(明治天皇の写真)に敬礼。喜久太郎は通常の外国人教師とは違うと確信します。

前任の外国人教師は「キリスト教以外の神を尊ぶものは野蛮人」と言っていました。しかしハーンは「その人こそ無学な野蛮人だ」と言います。そして「祖先の神々や国家の宗教を尊ぶことが君たちの義務」と語りました。

ハーンに魅了された喜久太郎は、以降親交を深めるようになります。加えて生きた英語に触れたことは、のちの喜久太郎の人生の糧となっていきました。

明治25(1892)年、喜久太郎は尋常中学校を卒業。この後、旧制高校(どこかは不明)に入学したと思われます。

明治30(1897)年ごろに東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に入学。明治34(1901)年に卒業しています。

同年には、恩師である緒方正規〔おがた まさのり〕の門に入り、母校で助手として教育・研究に携割るようになりました。

ここでの関心領域は衛生学者としての道筋と、細菌学者としての基礎訓練でした。

明治37(1904)年には侍医局(御用掛)に転任。明治41(1908)年に助教授に昇任を果たしました。

大正8(1919)年には教授となり、以後は伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の技師を兼任しました。

喜久太郎は衛生学者としての道を固めながら、確かに歩んでいました。

喜久太郎の恩師・緒方正規。最近学の基礎を築いた。

研究最前線!日本の衛生学界で果たした役割

喜久太郎は教授となってから、自らの分野の最前線で活躍していくこととなります。

昇任後、喜久太郎は大学で第二の衛生学講座を担当。のちには黴菌学(細菌学)講座も受け持ちました。

研究テーマで最も広く知られるのが鼠咬症(そこうしょう)です。

大正期には、伝染病研究所の同僚・門人らとともに病原スピロヘータに関する実験研究を継続し、その成果は『伝染病研究所学友会雑誌』などに公表されました。

とくに大正6(1917)年の「鼠咬症ノ實驗的研究」は、石原・太田原豊一・田村幸太郎の連名論文として残り、当時の検査技術・動物実験・病原認識の最前線を具体的に示しています。

この鼠咬症研究は評価を受け、昭和4(1929)年には日本学士院の日本学士院賞東宮御成婚記念賞)を受賞しました。

授賞審査要旨は、実験的研究の貢献を高く評価するもので、喜久太郎らの共同研究が当時の感染症学に与えたインパクトをうかがわせます。

喜久太郎の仕事は基礎感染症学にとどまりません。文部行政に接続する形で、学校現場の健康管理・保健体制の整備にも深く関わりました。

喜久太郎の著書『石原学校衛生』は、近代日本における学校衛生の出発や制度化の過程を、医師の立場から整理したテキストです。

本書のなかで喜久太郎は、「日本の学校衛生の歴史は明治二十四年(1891)十月を出発点と見なせる」といった問題提起を行い、制度史と実務(検診・結核対策など)を往還させる視点を示しています。

研究論文でも学校衛生行政史の文脈で同書が頻繁に参照されており、教育・保健史の交差点で位置づけられる仕事でした。

また、当時の青年団・体操・武道をめぐる「身体の鍛錬」論議に対しても医学・衛生の観点から発言。身体教育をめぐる公共政策と保健医療を架橋しようとしました。

大学・省庁・社会団体が横断的に関与する領域で、医師として可能な役割を粘り強く模索した点に、喜久太郎の実務家としての顔がよく表れています。

東京大学医学研究所。伝染病研究所が源流の一つとなった(出典:ウィキペディア)。

「衛生」と「社会」をつないだ栄誉

やがて喜久太郎の長年の取り組みが評価される時が訪れます。

昭和3(1928)年、喜久太郎は勲三等瑞宝章を受章。翌昭和4(1929)年には前掲の日本学士院賞に加えて北里研究所浅川賞も受けています。

学界・官界の双方から評価を受けたことは、大学講座での教育研究と、伝研・行政現場での応用実務の双方で足跡を残した研究者であったことを物語ります。

その後も喜久太郎は細菌学者としての基礎研究と、学校衛生・公衆衛生の制度整備という「現場」の二正面に目を配り続けました。

昭和19(1944)年6月13日、喜久太郎は世を去りました。享年73。

出身地・松江の名を背負い、首都圏の学術・行政の中心で培った知を通じて、近代日本の「病」と「社会」を結び直すための礎を築いた生涯でした。

喜久太郎が受けた勲三等瑞宝章(出典:ウィキペディア)。

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