【豊臣兄弟!】なぜ織田信長は逃げた…最大級の危機「金ヶ崎の退口」の謎、ドラマではどう描かれる?
時は元亀元年(1570年)、天下一統の野望に燃える織田信長(小栗旬)は、三万の軍勢を率いて越前の朝倉義景(鶴見辰吾)を攻めました。
緒戦は好調……しかし盟友であった妹婿・浅井長政(中島歩)が突如として寝返り、織田勢の背後を突きます。信長は真っ先に逃亡、木下藤吉郎秀吉(池松壮亮)や徳川家康(松下洸平)らが殿軍を務めました。
これを後世「金ヶ崎の退口(かねがさきののきぐち)」または金ヶ崎崩れと言い、信長の生涯における痛恨事となったのです。
しかしなぜ信長はいきなり逃げ出してしまったのか、疑問を指摘する者もいました。そこで今回は、金ヶ崎の退口について、信長逃亡の真相に迫りたいと思います。
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まずは金ヶ崎の戦いについて、織田&徳川と朝倉&浅井を比較してみましょう。
織田&徳川連合軍……30,000 朝倉義景……10,000 浅井長政……5,000※兵力の概数には諸説あります。
※朝倉・浅井は別行動(織田を挟み撃ちする形)のため、個別に表記しました。
こうして見ると、信長たちの方が、朝倉・浅井よりも2倍の兵力を持っていたことが分かります。
かき集めても自分たちの半分にしかならない、少数の敵を恐れて逃げ出した……まるで、水鳥の羽音に驚いて平家の大軍が総崩れとなった富士川合戦のようです。
前方に1万、背後に5千……それなら前方へ2万、背後へ1万を割り振れば、余裕で撃退できるでしょう。
にもかかわらず、信長が一目散に逃げ出した理由ははっきりしません。正解は信長本人に聞くしかないものの、以下いくつかの仮説が考えられます。
一、兵站(補給ルート)の途絶を恐れた
一、挟撃には兵力差を覆す威力があった
一、敵兵力の正確な情報がなかった
この辺りでしょうか。一つずつ考察したいと思います。
一、兵站(補給ルート)の途絶を恐れた
それまで「補給は現地調達≒敵地で略奪」という考えが一般的でしたが、信長は兵站の整備を進めていました。
敵から奪った方が合理的に思えますが、略奪には返り討ちやそもそも奪う物資がないリスクもあります。それならコストはかかっても自前で供給できる方が、大軍を安定的に運用できるでしょう。
しかし一度兵站が途絶してしまうと、大軍はたちまち飢餓に苦しめられることになります。それを恐れて信長は脱兎の如く逃げ出した……と考えられました。
一、挟撃には兵力差を覆す威力があったたとえ2倍の兵力差があっても、前後や複数方向から攻撃を受けると注意が散漫になり、実力を発揮できなくなるものです。
戦場では大勢がごった返しているため、いつも冷静に合理的判断ができるとは限りません。
大軍であればあるほど、指揮命令が行き届かずに右往左往し、烏合の衆と化してしまうリスクは高いでしょう。
そういう意味から、信長は下手に両面の敵を迎え撃つより、一目散に逃亡して被害を最少限におさえようと考えた可能性があります。
一、敵兵力の正確な情報がなかった
現代の私たちは織田&徳川VS朝倉&浅井の兵力差を知っていますが、当時現場にいた信長が同じ情報を持っていたかは分かりません。
「背後から敵襲!」と聞いて、その兵数を瞬時に把握するのは難しく、ならば一刻も早く退却を選んだ可能性も考えられます。
大慌てで逃げ延びた信長が、後から情報を集めて「何じゃ、泰山鳴動して鼠一匹だったか」と思ったかも知れません。しかし、もしこれが5万の大軍だったらひとたまりもなかったことでしょう。
生きてさえいれば再び朝倉を攻めることもできます(事実そうしました)。戦国乱世を生き抜く上で、危機察知能力は過敏なくらいでちょうどよかったのかも知れませんね。
終わりに今回は金ヶ崎の退口について、兵数で勝っていながら信長が慌てて退却した真相を考察してきました。
浅井長政の裏切りによって手痛い敗北を喫した信長は、その後苛烈な逆襲を果たすことになります。
果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、殿軍を務めた小一郎(仲野太賀)と藤吉郎、そして家康の奮戦ぶりが描かれることになるでしょう。漢たちの熱い闘いと絆に、胸が高鳴ります。
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谷口克広『織田信長合戦全録』中公新書、2002年1月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
