朝ドラ「風、薫る」娘に遺した志…ヒロインの父・一ノ瀬信右衛門(北村一輝)のモデル・大関弾右衛門の生涯 (3/4ページ)
藩政改革・軍備・教育に尽力しました。
彼の事績として特に注目されるのが、硫黄採掘をはじめとする産業振興です。
黒羽藩は小藩であり、財政基盤は決して強固ではありませんでした。その中で増虎は、鉱山業務の実務を担い、藩財政の立て直しに深く関与しました。
単なる家格の高い武士ではなく、実際に藩の経済を動かす現場型の家老だったことがうかがえます。
幕末の藩政改革というと軍事や政治に目が向きがちですが、弾右衛門の足跡からは、地方の小藩が生き残るために、産業と財政の再建がどれほど切実だったかが見えてきますね。
また、彼の家庭も後世に大きな影響を残酢ことになります。
安政5(1858)年4月11日、弾右衛門と妻・哲(テツ)の間に次女の娘の和が誕生。のちに近代看護の先駆者として知られる存在になります。
父の生きた幕末維新の緊張感、そして家の中にあった責任感や公共心は、和の人生観にも少なからず影響したはずです。
大関弾右衛門は、歴史の表舞台で名を残す大名ではありませんが、近代日本へつながる人材を育んだ父でもありました。
藩主の死と維新の激動の中でやがて弾右衛門に試練が訪れることとなります。
慶応3(1867)年12月、主君・大関増裕が急逝。大田原市の広報連載では、その前夜、増虎が藩主から後事を託されたという証言が紹介されています。
もちろん、この証言は後年の回想を含むため慎重な扱いが必要ですが、少なくとも増虎が藩主から特別な信頼を受けていたことは確かでしょう。
幕府と朝廷、新政府と旧体制のはざまで揺れるなか、黒羽藩の進路を託されるほどの重責を背負っていたのです。
弾右衛門は慶応4(1868)年に家老職を辞任。しかしその後も明治2(1869)年の藩制改革では家知事となり、さらに明治3(1870)年には白川県大属に任命されたと伝えられています。
弾右衛門は、旧来の武士として退場したのではなく、新しい行政秩序の中でも一定の役割を果たした人物でした。