大河『豊臣兄弟!』では描かれない?浅井長政への忠義を貫き通した戦国武将・赤尾清綱の壮絶な最期

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大河『豊臣兄弟!』では描かれない?浅井長政への忠義を貫き通した戦国武将・赤尾清綱の壮絶な最期

人間はとかく3という数字が好きなのか、戦国時代にも三好三人衆とか美濃三人衆が活躍していました。

北近江を領していた浅井長政(中島歩)にも浅井三将と呼ばれる者がいたようで、その顔ぶれは以下の通りです。

赤尾清綱(あかお きよつな) 雨森清貞(あめのもり きよさだ) 海北綱親(かいほう つなちか)

今回は赤尾清綱を紹介。果たしてどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。

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浅井家三代に仕える

浅井長政(画像:Wikipedia)

赤尾清綱は永正11年(1514年)、近江の国人である赤尾教政(のりまさ)の子として誕生しました。

元服して通称を孫三郎(まごさぶろう)、やがて美作守(みまさかのかみ)の名乗りを許されます。

赤尾家はもともと近江の大名である京極氏に仕えていました。しかし時勢によって浅井亮政(すけまさ。長政の祖父)に仕えます。

時は流れて浅井久政(榎本孝明)の代になると、長政に家督を譲らせるべくクーデターを企てました。

久政が城から出た隙を見計らい、遠藤直経(伊礼彼方)らとともに小谷城を占領したのです。

渋々ながら長政への家督承継を認めさせ、長政の下で浅井家の舵取りに参画していきました。

ただし既に高齢となっていたため、清綱は最前線ではなく顧問的な存在となっていたようです。

越前の朝倉と南近江の六角に挟まれる中、清綱は朝倉との連携を推進し、六角との対抗姿勢を打ち出しました。

果たしてこの決断が最善だったのか……ともあれ清綱は、長政より厚く信頼されていたようです。

最期まで信頼に応える

陥落する小谷城(イメージ)

清綱に対する信頼の厚さを示すエピソードとして、例えば浅井氏の本拠地である小谷城には「赤尾曲輪(〜ぐるわ)」と呼ばれる防衛拠点がありました。

清綱はここに館を与えられ、常に主君の側近くでお守りしていたのです。

普通の家臣は城外に館を持ち、城に詰めるのは有事に限られていました。もし城内で謀叛を起こされてはたまりませんからね。

長政は「清綱は決して謀叛など起こさない、いつも側で助言し、いざ有事は守ってほしい」と期待していたのでしょう。

清綱はその期待に最期まで応え続け、天正元年(1573年)9月1日に小谷城が攻め落とされると、織田信長(小栗旬)の面前で切腹して果てたのでした。

享年60歳。一説には生き恥をさらすまいと長政・浅井政元(まさもと)兄弟を連れて赤尾曲輪で自害したとも言われています。

終わりに

今回は浅井三将の一人である赤尾清綱について、その生涯をたどってきました。

多くの将兵が織田に降伏・臣従する中、最期まで忠義をまっとうした姿は、武士の手本と言えるでしょう。

果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」に赤尾清綱が登場するのか、楽しみにしています!

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※参考文献:

『ジュアル解説 切腹で読む日本史』スコラマガジン、2016年9月 『大日本地誌大系 第26巻』国立国会図書館 次世代デジタルライブラリー

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