朝ドラ『風、薫る』学問を武器に!日本初の看護婦学校を作った実在人物、大山捨松(多部未華子)の激動の生涯
3月末から始まった、NHK朝の連続ドラマ小説『風、薫る』。
日本初の「看護婦」への道を切り拓く一ノ瀬りん(見上愛)と大塚直美(上坂樹里)の物語ですが、日本初の看護婦学校を設立した実在の人物で、『鹿鳴館の華』と呼ばれた大山捨松(おおやますてまつ/多部未華子)も登場します。
華やかなオーラを放ち、当時最先端の西洋文化や知識、考え方を身に付けていた型破りな女性、捨松。
この人も、一ノ瀬りんの父・ 信右衛門(北村一輝)の言葉のように、自分の学んだ知識を『世を渡る翼、身を守る刀』にした生涯でした。
新しい西洋の風を吹き込んだ大山捨松(NHK「風、薫る」公式サイトより)
※現代では「看護師」と呼びますが、この記事内では、ドラマの明治時代の設定に合わせて「看護婦」としています。
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父親は会津藩の国家老・山川尚江重固でしたが咲子が生まれる前に亡くなり、祖父が親代わりとして育てました。
8歳の時に戊辰戦争が勃発。会津は旧幕府側だったので薩長の新政府軍に攻め込まれ、幼い咲子も傷を負うなど戦争の修羅場を体験したのでした。
この会津戦争で一家の運命は大きく変ります。咲子は、坂本龍馬の従兄弟でハリストス正教会の日本人初の司祭・沢辺琢磨のもとに里子に出されました。さらに、その紹介でフランス人の家庭に引き取られたり、一時はアメリカ人宣教師に預けられたりしながら育ったそうです。
その後、新政府がアメリカへの留学生を募集するようになります。山川家では、外国人の家庭で育ち西洋式の生活習慣にも慣れていた咲子を応募させました。咲子はまだ11歳でしたが試験に合格。
このとき、母・えんは「今生で二度と会えるとは思わない。けれども『捨てた』つもりでお前の帰りを『松』」と言い、「捨松」と改名させたのでした。
優秀な成績で大学を卒業し看護婦免許も取得
当時、捨松とともに留学した女学生は全部で5人でしたが、2人は病気を理由に帰国し、残ったのは3人になってしまいました。捨松と、のちに日本初のピアニストととなる永井しげ(瓜生繁子)、津田塾大学の創設者、津田梅子でした。
この3人は自分たちを「ザ・トリオ」と呼び、異文化にもすぐに溶け込み親友となり、帰国後もその関係は続くことになったのです。
捨松は、牧師レナード・ベーコン宅に身を寄せ、英語を取得しつつ勉強し続け、全寮制の女子大学ヴァッサー大学に進学。
明治15年(1882)には、優秀な成績で大学を卒業、アメリカの赤十字社に関心を寄せていたために、ニューヘイブン病院で実地看護を学び、看護婦免許を取得し日本に帰国しました。
けれども、帰国子女であれば教職に就けると期待していたものの政府から仕事を紹介してもらえず、日本語は「小学生程度」に衰え、大学でも一般教養を学んだだけで、特に専門知識を持たない捨松は、日本の状況に失望。
さらに、帰国して22歳になっていたので、「行き遅れの娘」といわれうんざりしていたようです。
そんなある意味八方塞がりだった捨松は、吉井友実(日本の宮内官、官僚)という人物の紹介で、陸軍中将であった18歳年上の大山巌に出会います。大山は吉井の長女と結婚し三人の娘をもうけるも妻に先立たれていました。
大山は語学堪能ではあったものの、この時代の外交といえば「夫人同伴の夜会や舞踏会」が中心だったのです。そのため、吉井はアメリカの名門大学を成績優秀者として卒業したうえに、外国語も堪能だった捨松を、大山の再婚相手として目をつけていたそうです。
西洋文化が身についた捨松に一目惚れした大山巌
自他共に「西洋かぶれ」を称する大山は、洗練され語学堪能で美しい捨松に一目惚れ。さっそく長兄を通じて結婚を申し込みますが、山川家はもと会津藩士。大山は宿敵・薩摩隼人なので、即座に断ります。
ところが大山が粘りに粘ったので、仕方なく、兄は捨松の意思を聞くことにしました。「どういう人かわからないと返事もできない」ということで、試しにデートをすることになった捨松と大山巌。
このとき、薩摩弁VS会津弁でお互いに何をしゃべっているのか意思疎通ができなかったため、フランス語で話すようになり会話がはずんだという、エピソードがあります。
気さくな大山の人柄が気に入った捨松は結婚を決意。明治16年(1883)に婚儀が行われ、その一ヶ月後に完成した鹿鳴館にて披露宴が行われました。
当時、人前で女性が、ましてや「花嫁」が社交的に振る舞うことはほぼないような時代でした。けれども、エレガントに堂々と振る舞う新しい女性像を感じさせる捨松に、みな魅了されたようです。
捨松に「イワオ」と呼ばれていた夫(NHK「風、薫る」公式サイトより)
ルックスも語学もダンスも秀でた捨松は「鹿鳴館の華」に鹿鳴館では連日夜会や舞踏会が催され、明治の高官たちは諸外国の外交官と接点を持つために参加していたのですが、日本人の不慣れな「鹿鳴館外交」は、諸外国からばかにされていたとか。
身長も低くプロポーション的にも燕尾服やドレスが似合わない日本の高官やその夫人が慣れないダンスをする様子を「滑稽なもの」としていたという話もあります。
けれども、そこで日本人外交の面目躍如をしたのが捨松です。
当時の女性としては長身で美しく、語学も堪能、子供のときから身につけているダンスのステップも抜群、ドレス姿も板についているという、新しい日本人女性を感じさせる輝き。
捨松は、またたくまに注目を集め『鹿鳴館の華』と称賛されるようになったのです。
日本初の看護婦学校の設立に尽力
捨松の功績はそれだけではありません。
東京の有志共立東京病院(のちの東京慈恵会医学大学附属病院)を見学したとき、看護婦という存在がなく雑用係の男性が数名する程度だったことに衝撃を受けます。
そこで、元海軍軍医総監で病院長であった高木兼寛に、患者のため女性の社会進出のため、日本に看護婦養成学校が必要だと提言します。
そして、資金集めとして明治17年(1884)に「鹿鳴館慈善会」を行い、3日間で大収益を上げて共立病院に寄付をするという偉業をなしとげました。
そのおかげで、日本初の看護婦学校「有志共立病院看護婦教育所(のちの慈恵看護専門学校」が設立したのです。
明治20年(1887)には「日本赤十字篤志婦人会」の発起人となったり寄付金集めなどを行う一方、看護婦の資格を活かし日本赤十字社で戦傷者の看護や包帯作りなどを行いました。
また、アメリカの新聞に寄稿し日本の苦しい財政状況を訴えて義援金を集めます。集まったお金はいろいろな慈善事業に生かされたのでした。
明治33年(1900)に親友の津田梅子が女子英学塾(のちの津田塾大学)を設立した際には、捨松も瓜生繁子も全面的に支援。自分たちが理想とする女子教育の場を作ったのでした。
大正5年に巌が75歳で死去した後は公の場にはでなかった捨松ですが、梅子が病に倒れたために英学塾の後任探しに尽力するも、当時世界的に流行していたスペイン風邪により58歳で亡くなりました。
大山夫妻は、お互いに深い理解と愛情と絆で結ばれたおしどり夫婦として有名でした。
インタビューで新聞記者に「閣下(大山)は奥様が一番お好きなのでしょう?」と質問をされたとき「違います!一番好きなのは児玉さん(児玉源太郎)、二番目が私、三番目にはビーフステーキ」と即答した捨松。
当時の日本人女性なら、「いえいえ」ともじもじしそうな質問も、闊達に機知に富んだ答えをする人でした。
史実では、大関和と捨松がどのように関わったかという資料はないそうです。
ドラマの原案となった『明治のナイチンゲール 大関和物語』の著者、田中ひかるさんは「捨松は鹿鳴館のバザーで集めたお金で立派な看護学校を作ったんですよ。日本の看護史を語る上で欠かせない人物ですし、和と捨松が親交をもってもおかしくないですよね。」とのこと。
実際、学んだ知識や経験をもとに、看護への道と女性の教育や社会進出に尽力した生涯だった捨松。
この女性も、ヒロインたちと同様、「道をはずれた人から、いつも道は生まれた。」というドラマのキャッチコピーが当てはまる女性だなと感じました。
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鹿鳴館の貴婦人大山捨松: 日本初の女子留学生 久野 明子 (著)
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