朝ドラ「風、薫る」妻を苦しめた愛人問題…りんの夫・奥田亀吉(三浦貴大)の実在モデル・渡辺福之進の生涯
朝ドラ「風、薫る」には、ヒロインを取り巻く実在モデルたちの人生にも、思わず目を引かれる人物が少なくありません。
なかでも気になるのが、ヒロイン・一ノ瀬りんの夫となる奥田亀吉です。この奥田亀吉のモデルとなったのが、黒羽藩出身の渡辺福之進豊綱という人物でした。
渡辺福之進豊綱は、幕末の黒羽藩の次席家老の家に誕生。やがて軍事面で頭角を表し、幕末の動乱でも手柄を挙げました。
明治となると、将校である陸軍少尉にまで任官。近代日本の発展を軍人として支えていきました。
福之進は40歳のとき、まだ19歳であった大関和(ちか)と結婚。和こそが朝ドラ「風、薫る」のヒロイン・一ノ瀬りんのモデルです。
朝ドラ【風、薫る】予習:日本のナイチンゲール!ヒロイン・一ノ瀬りん(見上愛)のモデル・大関和の生涯しかし程なくして二人の結婚生活には暗雲が立ち込めていきます。そしてその関わりが、大関和の、あるいは近代看護の歴史を大きく変えることとなるのです。
今回は、渡辺福之進豊綱の生涯をたどりながら、その光と影の両面に迫ります。
まさに成功者!旧時代の武士から新時代の軍人へ天保9(1838)年、渡辺福之進豊綱は下野国黒羽藩の次席家老の次男として生を受けました。福之進が通称で、豊綱が諱となります。
黒羽藩は、大名とは言えど1万8000石ほどの領地しかありません。当然、藩の暮らし向きは豊かではありませんでした。
その黒羽藩において、次席家老である渡辺家は家禄200石を領有。しかし福之進は次男のため、家督相続はできません。
他家に養子に行くか、自ら何か実績を残すことでしか立身出世を果たす道はありませんでした。
そのため、福之進は特に軍事の専門家としての能力を磨いていきます。
家柄や指揮能力を買われたのか、物頭として抜擢。藩兵の指揮や警備に関わる役目につきました。
さらに砲術教地方も拝命。藩士たちに砲術(鉄砲や大砲の扱い方)を教授し、藩の軍事能力を高める道に邁進します。
天下泰平な世であれば、福之進の能力は開花せずに終わったかも知れません。しかしすぐに時代は動乱期を迎えます。
慶応3(1867)年10月、将軍・徳川慶喜が朝廷に大政奉還を行いました。明治維新です。
翌慶応4(1868)年1月には鳥羽・伏見で、新政府軍と旧幕府軍が衝突。新政府軍が勝利を収め、新たな時代を迎えます。
このとき、黒羽藩では藩主・大関増裕が死去。一説には旧幕府に付けずに自害したとも伝わります。
藩主死後、黒羽藩は明治新政府軍に恭順を表明。このとき、福之進は黒羽藩兵の二番隊隊長として、新政府側の一員となって参戦しています。
福之進は家柄だけでなく立場や能力を買われ、藩の将来を左右する立場になっていたことになります。
妾5人!本妻1人…福之進のダメンズぶりが歴史を変えた?
明治維新を迎えた日本において、武士たちの暮らしは大きく変わっていきます。
明治政府は、国防のために国民皆兵路線を断行。武士たちには廃刀令や秩禄処分を行なってその特権を奪っていきました。
武士たちの多くは、軍人や警察、あるいは他の職業を選択。新たな道に歩んで成功する者も出ます。
福之進は能力や経験を活かしてか、陸軍省に出仕。陸軍少尉補、陸軍少尉となって要地である東京鎮台や熊本鎮台、広島鎮台で働きました。
少尉といえば、将校と言える身分です。
古い時代に武士であった男が、新時代の陸軍軍人へと転身するのは、ある意味明治のサクセスストーリーでもありました。
そんな福之進に、新たな出会いが訪れます。
明治9(1876)年、福之進は大関和と結婚。和は黒羽藩の旧士族で元筆頭家老・大関弾右衛門の次女でした。
朝ドラ「風、薫る」娘に遺した志…ヒロインの父・一ノ瀬信右衛門(北村一輝)のモデル・大関弾右衛門の生涯家柄でいえば釣り合いが取れていますが、年齢は20歳ほど離れていたといいます(このとき数え年で福之進が39歳。和は19歳)。
さらにまずいことに、すでに福之進には5人の妾がいました。しかも子供も5人いたと伝わります。
結婚の条件は妾との関係を清算することでした。しかし福之進は一度は受け入れたものの、妾との関係を終わらせません、
明治10(1877)年、和との間の第一子・六郎が誕生。すでに妾に子供が5人いたため、この名付けだったようです。
当然、和との夫婦関係は軋み始めていました。
明治13(1880)年には和との間に第二子・心(シン)が誕生。しかし程なくして和は子供を連れて福之進と離婚して家を出ていきました。
翌明治14(1881)年、和は上京して桜井女学校附属看護婦養成所へ進学。日本初の近代的な教育を受けた「トレインドナース」となります。
和は帝国大学医科大学第一医院(現在の東大病院)の初代外科看病婦取締役(看護婦長)に就任するなど、日本初の看護婦として偉大な足跡を残しました。
さらに和は、明治期に一般的であった「一夫多妻」を憎み、キリスト教の説く「一夫一妻」に共鳴。入信へとつながりました。
言い換えれば、福之進との離婚がなければ大関和のその後はなかったかも知れないということです。
大正14(1925)年、福之進は世を去りました。享年88。
江戸時代に武士として生まれ、新時代の軍人となり、華々しい経歴によって、本来は歴史に堂々と名を刻むはずでした。
しかし大関和との関わりの中で、本来評価されるべき点が霞み、創作等では憎むべき敵役としての一面が強調されています。
渡辺福之進豊綱の一生は、そういう意味では、多くのものを手に入れながら、その実、失っていった一生でもあった、とも言えるのではないでしょうか。
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