『豊臣兄弟!』朝倉義景(鶴見辰吾)は本当に愚将だったのか?上洛しなかった“意外に堅実”な理由

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『豊臣兄弟!』朝倉義景(鶴見辰吾)は本当に愚将だったのか?上洛しなかった“意外に堅実”な理由

かつて足利義昭(尾上右近)を迎え入れながら上洛せず、見限られてしまった朝倉義景(鶴見辰吾)。

京都からほど近い越前(福井県東部)を領し、その気になれば天下(畿内政治の主導権)を握れたかも知れないのに、そのお株は織田信長(小栗旬)に奪われてしまいました。

そして間もなく滅ぼされてしまったことから、愚将の烙印を押されてしまいがちです。

しかし義景は本当に愚将だったのでしょうか。そんな疑問を解消するため、今回は義景が上洛しなかった理由について紹介したいと思います。

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上洛しなかった理由1:義昭の胡散臭さ

義昭を奉じて上洛を果たした信長。成功した結果を知っているから、上洛しなかった義景が愚かに見えてしまうのかも知れない。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

時は永禄9年(1566)秋、一人の男が越前へやって来ました。彼こそは足利義秋(義昭)。三好三人衆や松永久秀に暗殺された将軍・足利義輝の弟です。

その要求は「自分を奉じて上洛し、自分を将軍にしてほしい」という極めてシンプルなものでした。

彼が将軍となった結果を知っている後世の私たちは「すぐにも上洛して、天下を獲ればいいじゃん」と思ってしまうかも知れません。

しかし考えてもみてください。確かに彼は将軍の弟です。しかし「だから何だ」とも言えなくはないでしょうか。

将軍暗殺という混乱に乗じて、資格もないのにorほぼこじつけで「我こそは」と名乗りを挙げる例も少なくありません。

下手な人物を担ぎ上げれば我が身が危ないし、舌先三寸の義憤に駆られて挙兵など、軽々なことはできないのです。

要するに義昭は「胡散臭い」存在だったと言えます。

と言って軽く扱えば後でどう転ぶかわからない……義景ならずとも、慎重に接するのは道理と言えるでしょう。

実際に義景ははじめ義昭を敦賀に迎え、一年以上経ってからようやく一乗谷へ迎えています。

この処遇から、義昭という存在の厄介さと、義景の堅実さがうかがい知れるのではないでしょうか。

上洛しなかった理由2:加賀一向一揆

加賀一向一揆(イメージ)

加えて義景が上洛しなかった背景には、加賀一向一揆の存在がありました。

越前の北に位置する加賀国(石川県南部)は、文明6年(1474年)に一向一揆が守護の富樫氏を滅ぼして以来「百姓の持ちたる国」となっています。

石山本願寺を頂点とする宗教組織の連合体が国家権力を排除し、守護も大名もいない独自の体制をおよそ百年維持していました。

一向一揆の脅威は越前朝倉氏にも及び、初代・朝倉孝景(たかかげ)はじめ歴代当主は、襲来する一向一揆とたびたび死闘を繰り広げています。

迫りくる侵略の波から、辛うじて領国を維持できている状態で上洛などすれば、たちまち越前は一向一揆に呑み込まれてしまったでしょう。

だから義景は仮に動きたかったとしても、動くことがままならなかったのです。

この「近くに強敵がいるため上洛できない」という事情は、終生ライバル同士だった甲斐の武田信玄(高嶋政伸)と越後の上杉謙信(工藤潤矢)も同じでした。

義景が上洛しなかったのは、天下への野望よりも基盤の維持を選んだ現実的な判断と言えるでしょう。

上洛しなかった理由3:一乗谷の繁栄

いたずらに野心を抱かず、領民の繁栄を守ろうとした朝倉義景(画像:Wikipedia)

朝倉氏の本拠地である一乗谷の遺跡を見ると、何とも辺鄙(へんぴ)で、義景の「山奥に引きこもって好機を逸した愚将」というイメージを掻き立てるかも知れません。

しかしそれは結果の後づけに過ぎず、当時の一乗谷は洗練された武家文化が根づいく北陸有数の一大都市でした。

その片鱗として、遺跡からは複数の庭園跡やヴェネチアングラスが出土しています。

ヴェネチアングラスとはイタリア式のガラス製品で、南蛮文化の象徴的存在として珍重されていました。

よく信長がワインなんか飲んでるイメージですが、義景もきっと楽しんだのではないでしょうか。

もちろんガラス容器くらいで何だと言えなくもありませんが、少なくとも南蛮からの舶来品の届くルートがあり、それを開拓した国力の裏づけが感じとれます。

更に義景は薩摩国の島津義久(しまづ よしひさ)と交流し、琉球国や中国大陸との交易ルート開拓も図っていました。

永禄10年(1567年)に義景は島津義久に対して交易を仲介してくれた謝礼を贈っています。

そもそも越前は古くから大国(※)に分類されていました。豊かな越前平野は北陸における交通の要衝であり、代々国力を蓄え続けてきたのでした。

(※)国力の高さ順に大国・上国・中国・下国の四等級。

わざわざリスクをとって上洛などせずとも、充分豊かに暮らせたのです。

終わりに

鶴見辰吾演じる朝倉義景。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

胡散臭い義昭を軽々に担がなかった 北に加賀一向一揆の脅威があった そもそも一乗谷が豊かで、リスクをおかす必要がなかった

こうした理由から上洛をためらった義景は、極めて現実的な判断を下したと言えるでしょう。

浮ついた野望に踊らされず、地に足をつけた冷静な視点を持っていたとも言えます。

※それが往々にして腰抜け扱いされてしまうことも少なくありませんが……。

しかしそんな義景の常識を覆したのが、信長の存在でした。

そこまで見通せなかったから愚将だと断じるのは、結果を知っているがゆえの傲慢ではないでしょうか。

恐らくNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」ではひたすら愚将・凡将として描かれるものと思われますが、義景の意外な一面も知ってもらえたらと思います。

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※参考文献:

辻川達雄『本願寺と一向一揆』誠文堂新光社、1986年2月 松原信之 編『朝倉義景のすべて』新人物往来社、2003年7月

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