『豊臣兄弟!』大口を叩いた“嫌なヤツ”のその後…武将・朝倉景健(重岡漠)がたどった哀れな最期

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『豊臣兄弟!』大口を叩いた“嫌なヤツ”のその後…武将・朝倉景健(重岡漠)がたどった哀れな最期

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第15回放送「姉川大合戦」で初登場した朝倉景健(あさくら かげたけ)。演じる重岡漠がのっけから悪役ぶりを好演し、尊大な武将ぶりを強烈に印象づけました。

※第15回放送「姉川大合戦」の解説記事:

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ところが、いざ戦が始まると自信満々の姿とは裏腹に、あっけない敗北。劇中では「威勢だけの嫌なヤツ」で終わりそうにも見えましたが、史実の景健はそれほど単純な人物ではありません。

姉川の戦いで敗れたあとも各地を転戦し、ときに戦功を挙げ、ときに主家滅亡の渦中で運命に翻弄されました。

今回は、朝倉景健が姉川合戦のあとにどんな戦いを重ね、どのような最期を迎えたのかをたどっていきましょう。

姉川以後も奮戦

朝倉義景。歌川国芳「太平記英勇傳 浅久良左エ門太夫義兼」

朝倉景健は生年不詳、朝倉景隆(かげたか)の子として誕生します。

景隆の家は朝倉一門におけるナンバー3(惣領家除く)の地位を占めており、かなりの名門でした。

※ナンバー1は朝倉景鏡(池内万作)の大野郡司家、ナンバー2は朝倉景紀(かげのり)らの敦賀郡司家となります。

元服して通称を孫三郎(まごさぶろう)と名乗り、元亀元年(1570年)ごろに家督を継承しました。

その直後に織田信長(小栗旬)が越前へ侵攻してくると、これを防ぐべく戦陣に臨みます。

また元亀元年(1570年)6月の姉川合戦では朝倉軍の総大将として指揮をとりますが、劇中で描かれた通り敗北を喫しました。

しかし負けてばかりではありません。同年9月の下坂本合戦において織田軍の森可成(水橋研二)や織田信治(のぶはる。信長弟)ら750名を討ち取る戦果を上げています。

天正元年(1573年)8月の刀根坂合戦でも武勇を奮い、窮地の朝倉義景(鶴見辰吾)を越前へ落ち延びさせることに成功しました。

やがて朝倉景鏡の謀叛によって義景が自刃すると、景健は信長に降伏します。

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裏切り者は許されない

自刃する景健(イメージ)

所領を安堵された景健は、朝倉の苗字を棄てて安居(あご/あんご/あぐい)と改めました。

これは「今後は名門のプライドを振りかざさない≒二度と逆らわない」という意思表示だったのかも知れませんね。

ただし信長にとってはどうでもよかったのか、天正2年(1574年)7月20日付の書状では「朝倉」孫三郎と記して≒認識していたようです。

やがて越前一向一揆が勃発すると、景健は抗い難しと見て一揆勢に降伏し、一揆に寝返りました。しかし天正3年(1575年)に織田軍が越前へ攻め込むと、形勢は逆転します。

景健は一揆の指導者であった下間頼照(しもつま らいしょう/よりてる)・下間頼俊(らいしゅん/よりとし)を討ち取ります。

その首級を手土産に再び信長に帰参を申し出ますが、今度は許されず、8月21日に自刃させられたのでした。

終わりに

今回は朝倉景健について、姉川以後の末路を紹介してきました。

やむを得ず一揆に寝返ったのかも知れませんが、一度自分を裏切った者を、信長は許さなかったのです(ただし例外あり)。

果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、景健の末路がどのように描かれるのでしょうか。

ここまで嫌なヤツ感たっぷりに演じていますが、最期くらいは魅力の光る一瞬に期待したいですね!

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※参考文献:

松原信之 編『朝倉義景のすべて』新人物往来社、2003年7月 水藤真『人物叢書 朝倉義景』吉川弘文館、1986年11月

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