明治時代の地租改正は“農民いじめ”ではなかった?明治日本の税制改革が米の収穫量を激増させた理由
地租改正の実像
明治時代の地租改正といえば「年貢を金に変えただけ」「農民の負担が増えた」と語られることが多く、現代ではあまり高く評価されていません。
しかし当時の数字を見ていくと、どうもそのイメージは実態とは違うようです。
まず、当時の地租の税率は地価の三%。これは収穫米の平均代価の三〇%ほどで、江戸時代の年貢と同じか、むしろ軽い水準でした。
もともと江戸時代は収穫量が増えると年貢も増える仕組みだったため、農民が努力しても取り分が増えにくい構造でした。
ところが地租改正後は税額が固定されたため、増産した分はすべて農民の利益になります。
この仕組みが農民のやる気を大きく刺激したのでしょう、明治初期のわずか四年間で米の収穫量は二倍に跳ね上がりました。
この収穫量の伸びは技術革新だけでは説明しきれないもので、税制が生産意欲を押し上げた効果はかなり大きかったと考えられます。
公平化の一歩地租改正にはもう一つ大きな意味がありました。それは、税の公平性と透明性を高めたことです。
江戸時代の年貢率は藩ごとにバラバラで、幕府領は軽く、藩領は重いという不公平がありました。
これが地租改正で税率が全国統一されたことで、多くの農民にとっては負担減となったのです。
一方で旧幕府領では負担増となり、明治初期の一揆が旧幕府領に集中したことも記録に残っています。
また、江戸時代の徴税は役人の裁量が大きく、賄賂や不正が横行していました。農民が“袖の下”で負担を軽くしてもらうのは珍しいことではなかったのです。
地租改正はこの不透明な構造を断ち切り、明確な基準に基づく税制を導入しました。
明治政府が行った全国的な土地調査では、江戸時代の記録で三二二二万石とされていた収穫量が、実際には四六八四万石もあったことが判明します。
いわゆる「隠し田」による脱税が大量に存在していた証拠で、地租改正はこうして脱税防止にもなったのです。
最善の税制ところで、もともと地租は明治時代前半の税収の柱で、明治十八年には税収の八割を占めるほどの存在でした。
しかし日本が急速に成長していく中で、地租の比重は次第に低下していきます。その理由はシンプルで、明治初期に設定した地価がそのまま使われ続け、物価上昇に追いつけなかったためです。
そこで政府は税率引き上げを試みましたが反発が強く、十分な調整はできませんでした。
明治四十四年には賃貸価格を基準にする方式も導入されましたが、地租の存在感は薄れ、昭和に入るころには税収の一割を切ります。
こうした点が、明治期の地租改正という政策が現代ではあまり高く評価されていない原因なのでしょう。
それでも地租改正が果たした役割は非常に大きいものでした。税制の公平化、脱税構造の解消、農民の生産意欲向上、土地台帳の整備など、近代国家としての基盤をつくるうえで欠かせない改革だったのです。
フランスの大蔵大臣レオン・セイが明治政府の地租改正を「租税改革として最善の策」と評価したことも、当時の国際水準から見ても優れた施策だったことを示しています。
現代ではあまり語られませんが、日本の近代化を支えた重要な施策だったことには間違いありません。
参考資料:
大村大次郎『脱税の日本史』宝島社、2024年
画像:Wikipedia,PhotoAC
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