朝ドラ『風、薫る』DV夫と決別し女性の自立を支えた“熊本の猛婦”…校長・梶原敏子のモデル・矢嶋楫子の生涯

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朝ドラ『風、薫る』DV夫と決別し女性の自立を支えた“熊本の猛婦”…校長・梶原敏子のモデル・矢嶋楫子の生涯

「自立する女性」がいかに社会的に尊重されない存在だったか……が随所に散りばめられている、NHK朝の連続テレビ小説『風、薫る』

マザコン夫・奥田亀吉(三浦貴大)に「女に学問はいらねえ!」と暴れられた一ノ瀬りん(見上愛)。孤児だから「女郎の娘だろ」とさげずまれる大塚直美(上坂樹里)。

帰国子女で、外国語・ダンス・西洋マナーにも秀でているのに「欧風芸者」と陰口を叩かれる大山捨松(多部未華子)など。

「誰かに嫁いで、家にいて仕事や学問はせず、妻となり母となる」のが女の幸せという考え方が一般的だった時代。そんな流れに身を任せず、自分の足で歩き自分の翼で飛び立つ女性たちが次々登場しその個性を輝かせています。なかには実在の人物をモデルにしたと思える登場人物も。

今回、ご紹介するのは、トレインド・ナースになるべく、りんと直美が通い始めた『梅岡女学校』の校長で附属の看護婦養成所の所長、梶原敏子(伊勢志摩)のモデルだと推測されている矢嶋楫子という女性です。

「熊本の猛婦」とも呼ばれ、さまざまな社会的活動をした人で、渡米した際に大統領に『世界で一番チャーミングなお婆さん』といわれた矢嶋楫子。どのような人だったのでしょうか。

梶原敏子校長兼所長と英語教員兼養成所の舎監兼通訳の松井 エイ(玄理)(NHK朝ドラ『風、薫る』公式サイトより)

「女性の地位向上」に尽力した矢嶋楫子

「風、薫る」の公式サイトで梶原敏子は、

女学校の校長と養成所長を兼任。学生が導入された学校教育の黎明期に教員となった。時代を切り拓いていく女性の育成に熱心。

と紹介されています。演じる俳優、伊勢志摩さんは『あまちゃん』『虎に翼』などの朝ドラでも出演していた俳優さんです。

敏子は、学校や生徒たち全体を見守る立場。この敏子のモデルとされているのが矢嶋楫子(やじまかじこ)なのです。

楫子は、天保4年4月24日(1833年6月11日)肥後国上益城郡津森村杉堂(現・熊本県上益城郡益城町杉堂)の惣庄屋・矢島忠左衛門直明と鶴の2男7女の6女に生まれました。

「また女か」とがっかりした両親が名前を付けなかったため、姉・順子が「かつ」と名付けたとか。

ちなみに、三女・順子は熊本女学校校長となった教育者、四女・久子は小説家・徳富蘆花、思想家・徳富蘇峰などの母、五女・つせ子は熊本藩士で儒学者の横井小楠の後妻に。のちに、敏子を加えたこの四姉妹は「肥後の猛婦」「四賢婦人」と呼ばれるようになりました。

かつは25歳で、当時は「いき遅れ」の年齢だったため、既に子供のいる富豪男性と再婚。しかしながら、夫は酒癖が酷いうえに度を過ぎたDV男でした。

酔って生まれたばかりの赤ん坊をめがけ抜き身の小刀を投げ、それを庇ったかつの二の腕に刀が命中するという常軌を逸した事件を発生させたほど。

『風、薫る』では、りんの夫・奥田亀吉もしょうもない酒乱のモラハラDV夫でしたが、かつの夫はそれを上回る驚愕のクズ男です。

そんな夫にかつは精神的に衰弱し半盲状態になるほどだったため、三人の子をもうけていましたが家出、迎えに来た使いの者に、見事に結い上げた黒髪を根元からプッツリ切って紙に包み、無言の離縁を言い渡したのでした。

明治元年(1868年)、かつはこれを転機に新しい一歩を踏み出したのでした。

伊勢志摩さん演じる、梶原敏子校長兼所長(NHK朝ドラ『風、薫る』公式「X」より)

「だから自分で自分を治めなさい」と校則を作らず

かつは、自ら「楫子」と改名。もともと向学心があったので、教員伝習所に通い明治6年学制が施行され全国に小学校が設置されると、訓導試験に合格。芝の桜川小学校(現・港区立御成門小学校)に採用されました。

明治11年(1878)には、米国の宣教師で教育者のマリア・T・トゥルーと運命の出会いをします。(マリア・T・トゥルーは、ドラマの中では宣教師・メアリーのモデルといわれています)

明治14年(1881)夏、桜井女学校の校主(現在の校長と理事長を兼ねた職)代理に就任。楫子は校則を作らず、「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と生徒たちを諭したそうです。

明治20年(1887)1月に、桜井女学校内に『桜井看護婦養成所』が開校され、大関和・鈴木雅らが入学しました。

さらに、明治23年(1890)に、櫻井女学校と新栄女学校は合併して女子学院となって楫子は初代院長に就任しました。

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そんな優秀な楫子ですが、喫煙の習慣があり、タバコの火の不始末でボヤ騒ぎを起こし大いに反省してやめたというエピソードもあります。

矢嶋楫子『日本女性運動資料集成 第8巻』不二出版、1997年10月30日。wiki

楫子は、婦人矯風運動(禁酒運動)に率先して参加するようになります。酒乱夫の狂気ぶりを間近で見ていたので、アルコールの弊害をよくわかっていたからでしょう。

明治19年(1886年)には東京キリスト教婦人矯風会を組織、初代会頭に選ばれます。翌年には「一夫一婦制の建白」「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出、国会開設と共に二大請願運動として継続しました。

明治26年(1893年)60歳のときには、矯風会の全国組織を結成、日本キリスト教婦人矯風会会頭となりました。

世界で一番チャーミングなお婆さん

精力的な活動をしていた楫子は、明治39年(1906年)74歳にして渡米し、万国矯風会第7回大会に出席、ルーズベルト大統領と会見します。

さらに、大正9年(1920)には欧米、翌10年(1921)には満州、同年から11年(1922年)にかけては三度渡米と、精力的に活動。このとき楫子89歳でした。大正3年(1914)、女子学院院長を後裔に譲り、名誉院長として退きました。

その後は禁酒運動、公娼制度廃止運動などに尽力し、大正14年(1925年)6月半ば、眠るように大往生を遂げそうです。

矢嶋楫子のエピソードで印象的なのは、1920年に渡米した際に全米の話題となりホワイトハウスに招かれたとき、時の大統領から「世界で一番チャーミングなお婆さん」と言われたこと。

また、宿泊したアトランティックシティのホテル・デニスで日の丸が掲げられていたので、なぜか?とホテルのマネージャーに尋ねると、「世界の平和のために、九十歳の老人のあなたが海を越えてはるばるアメリカに来られ、私どものホテルに泊って下さったのは無上の光栄です。敬意を表して日の丸の旗をあげました」といわれたという話も伝わります。

楫子は米国の至る所で歓迎され、ウィスコンシン州では、真夜中に急行列車が不意に停ったので事故でも起きたのかと思ったら、楫子を歓迎する人々が何千人と集って急行列車を停めてしまったそう。

すごい人気ですよね。楫子はその活躍ぶりに「肥後の猛婦」とも呼ばれたそうです。その人生や生き方は現代にも伝わり、2009年にはドラマに、2022年には常盤貴子さん主演で映画「われ弱ければー矢嶋楫子伝」が作られています。

矢島楫子ら(1921年11月7日)wiki

女学校の校長と看護婦養成所所長を兼任

朝ドラ『風、薫る』では、梶原敏子は明治時代初期に学制が導入された時に教員となったようで、梅岡女学校の校長・梅岡女学校付属看護婦養成所の所長という存在です。

モデルでは?といわれている矢嶋楫子も、明治6年(1873)に小学校教員伝習所を卒業し小学校訓導試験にも合格し、桜川小学校の教員として採用され赴任したという史実があります。

(ちなみに、ドラマに登場したクラシカルで可愛い外観の梅岡女学校は、茨城県土浦市にある『県立土浦第一高校(旧茨城県立土浦中学校)本館』で撮影されています。本館は明治37年(1904)に建てられたゴシック様式を基本とした建築物で国指定重要文化財です。)

また、ドラマでは梅岡女学校の校長と付属看護婦養成所の所長を兼任していますが、モデルとされる矢嶋楫子も、桜井女学校の校長代理と附属看護婦養成所の所長を兼任しています。

『明治のナイチンゲール 大関和物語』(著・田中ひかる/中央公論新社)によると、大関和と鈴木雅が通った桜井女学校附属看護婦養成所で、楫子は和に「看護それ自体によって救える命もあれば、看護婦という職業を確立し、女性の経済的な自立を図ることで、間接的に救える命もあります。ナイチンゲールも、『女性よ自立しなさい。自分の足で立ちなさい』と言っています」と伝えたそう。

ドラマの中では、梶原校長は、りんや直美とどのように関わっていくのでしょうか。

直接授業をするのは看護教師のバーンズ(エマ・ハワード)や英語講師の松井エイ(玄理)などが接するのでしょう。時折、なにか迷いや疑問などを抱いた悩む女生徒たちに、自身の経験や信念に基づいたアドバイスを伝えるのかもしれませんね。

生徒の授業風景を見守る梶原敏子校長兼所長(NHK朝ドラ『風、薫る』公式サイトより)

病人を救う看護婦の職業は自立したい女性たちを救った

この当時、女性が経済的に自立をするための専門職は、教師くらいしかなかったとか。そのため、この時代にトレインド・ナースという職業が誕生したことは大きな意味を持ちます。

もちろん、当時全国的に猛威を振るった疫病に対する、専門的な知識と技術を持つトレインド・ナースは社会にとって非常に重要な職業でした。けれども、貧しくて遊郭に売られたものの逃げ出して看護婦になって独立した女性もいたそう。

看護婦は人の命を救う職業ではありましたが、この職業の存在そのものが、貧しかったり自立をしたかったり夫や親の支配から逃げたかったりなど「This is my Life」を求めている女性たちそのものを救ったのでしょう。

このドラマでよりトレインド・ナースの今までの歩みに注目が集まり、教育や働く現場が改善されていくといいなと思いつつ、物語の進行を見守りたいと思います。

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参考:

亀山美知子 大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語 ドメス出版
田中ひかる 明治のナイチンゲール 大関和物語 (中公文庫)
三浦綾子 われ弱ければ(小学館文庫)

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