『豊臣兄弟!』浅井三姉妹だけではなかった…姉川で全滅した“浅井四兄弟”の壮絶な最期
浅井三姉妹と言えば、浅井長政(中島歩)とお市(宮崎あおい)の間に誕生した茶々・初・江のことですね。両親の死を乗り越えて、戦国乱世をたくましく生き抜いたエピソードは広く知られていることでしょう。
長女 茶々(ちゃちゃ)後に豊臣秀吉の側室となり、淀君(よどぎみ)と呼ばれます。豊臣秀頼の生母として秀吉死後の実権を握り、豊臣滅亡まで君臨しました。 次女 初(はつ)
後に京極高次(若狭小浜藩主)の正室となり、夫との死別後に豊臣家と徳川家の仲立ちとして奔走することになります。 三女 江(ごう)
後に佐治一成(信長の甥)・豊臣秀勝(秀吉の甥)・徳川秀忠(家康の嫡男)と結婚。秀勝との間に生まれた豊臣完子(さだこ)の血脈は現代の皇室へつながりました。
※参考記事:
【豊臣兄弟!】戦国の母・お市(宮﨑あおい) 自害で幕を閉じた悲劇と、三姉妹を生かすため選び続けた生涯さて、今回はそんな浅井三姉妹ではなく、『浅井三代記』より浅井四兄弟を紹介。果たして彼らはどんな生涯をたどったのでしょうか。
浅井四兄弟の顔ぶれと長政との関係は?
長男:浅井玄蕃允(げんばのじょう)
次男:浅井雅楽助(うたのすけ)
三男:浅井斎宮助(いつきのすけ)
四男:浅井木工助(もくのすけ)
彼らが浅井家当主である長政から見て、いとこおじに当たる人物です。
長男・浅井玄蕃允【浅井家略系図】
浅井直政-浅井政信-浅井四兄弟
浅井直政=浅井亮政-浅井久政-浅井長政※系図については諸説あります。
生年不詳~元亀元年(1570年)6月28日没
実名は浅井政澄(まさずみ)。長政が父・浅井久政(榎本孝明)を隠居させる謀議に加わるなど、浅井家の宿老として、遠藤直経(伊礼彼方)らと共に長政を補佐しました。
姉川大合戦では浅井軍の第二陣に配属されますが、織田軍の氏家直元(河内大和)に討ち取られてしまいます。
嫡男の浅井政勝(まさかつ)は姉川こそ生き延びたものの、天正元年(1573年)8月の小谷城攻めで討死してしまいました。
まだ20歳前後の若武者だったそうです。もしかしたら、政勝にとっては姉川大合戦が初陣だったのかも知れませんね。
次男・浅井雅楽助
生年不詳~元亀元年(1570年)6月28日没
実名は不詳、一説に浅井政成(まさなり/まさしげ)。永禄3年(1560年)ごろに三男の浅井斎宮助による大言壮語を咎めたことから、十年ほど絶縁状態となってしまいます。
しかし御家の一大事である姉川大合戦を前にして、兄弟で争っている場合ではないと斎宮助の陣所を訪ねて和解しました。これで心残りはないと大いに勇戦し、兄弟揃って討死したということです。
三男・浅井斎宮助
生年不詳~元亀元年(1570年)6月28日没
実名は不詳、一説に浅井政連(まさつら)。浅井家中において、我が兄や祖先ほどの働きをした者はいないと大言壮語。次兄の雅楽助から公衆の面前で咎められたため「メンツを潰された」と激怒します。
※ただ雅楽助にしてみれば、弟のメンツ以上に浅井家中での立場を優先したのは当然と言えるでしょう(弟の大言壮語をきちんと指導しないことで、同意しているなどと周囲から思われてはたまりません)。
雅楽助の申し出によって打ち解けた斎宮助もまた、心置きなく奮闘し、武士として立派な最期を遂げたのでした。
四男・浅井木工助
生年不詳~元亀元年(1570年)6月28日没
実名は不詳、一説に浅井政重(まさしげ)。兄たちと一緒に度々従軍しており、例えば永禄3年(1560年)8月に六角義賢(ろっかく よしかた。六角承禎)と争った野良田合戦では「浅井玄蕃允兄弟四人」、姉川大合戦では「浅井玄蕃兄弟四人」と記されています。
いつも力を合わせて戦い続けてきた四兄弟ですが、この姉川大合戦であえなく散華したのでした。
浅井四兄弟の官途名まとめ
ゲンバノジョウ(玄蕃允)の方がモクノスケ(木工助)よりカッコいいし強そう?(イメージ)
彼らは普段から諱(いみな。実名)ではなく、通称(成人男性が名乗る)や官途名(主君から名乗りを許された非公式の官職)で呼び合っていました。
なぜなら諱は忌み名とも言う通り、直接呼ぶことはたとえ部下に対してでもタブーとされたからです。
ここでは浅井四兄弟それぞれの官途名をまとめました。戦国時代に入ると有名無実となっていましたが、どんな職掌があったのでしょうか。
玄蕃允(げんばのじょう/ほうしまらひとのじょう)玄(ほうし):僧侶の在籍管理や朝廷における仏事法会の指揮監督。
蕃(まらひと):外国使節や異民族の饗応など。
允:三等官(じょう。従七位下相当)
雅楽助(うたのすけ/うたまいのすけ)雅楽(うた/うたまい):朝廷における管弦や舞楽(いわゆる雅楽)。
助:二等官(すけ。従六位上相当)
斎宮助(いつきのすけ/さいくうのすけ)斎宮(いつきのみや/さいくう):斎宮(伊勢の神宮に奉仕する未婚皇女)のお世話など。
助:二等官(すけ。正六位下相当)
木工助(もくのすけ/こだくみのすけ)木工(もく/こだくみ):朝廷における造営事業(材木調達や職人の手配など)
助:二等官(すけ。正六位下相当)
こうして並べて見ると、明らかに長兄の玄蕃允が格下に思えてしまいます。
しかし恐らく、当時は官職や位階の上下よりも「ゲンバノジョウって響きがカッコいい!」などと言った感覚だったのかも知れませんね。
『浅井三代記』に見る浅井四兄弟の最期
少し話が脇にそれてしまいましたが、それでは姉川大合戦における浅井四兄弟の奮闘ぶりと最期についても見ていきましょう。
……浅井か先勢(さきて)磯野丹波守員正に……(中略)……二番は浅井玄蕃允(げんばのじょう)舎弟雅楽助(うたのすけ)三男斎宮助(いつきのすけ)四男木工助(もくのすけ)……(中略)……七番は旗本と相定め段々に可相働(あいはたらくべし)と定め置(さだめおき)摠して(総じて)浅井か勢八千余騎なり……
※『浅井三代記』巻第十五「姉川合戦の事」
【意訳】浅井の先方は磯野員正(いその かずまさ)。二番手は浅井四兄弟ほか、七番手は旗本(長政親衛隊)、全7隊が相互連携することが指令された。かくして浅井は総勢8,000騎である。
……浅井雅楽助舎弟斎宮助……(中略)……は爰(ここ)を先途(せんど)と相戦ひ居たりしか味方ちりちりに敗北すれは討死と思ひ切各手柄あくまてつくし敵あまた討取終に討死なしたりける……
※『浅井三代記』巻第十五「姉川合戦の事」
【意訳】浅井雅楽助や浅井斎宮助たちは、ここが正念場と死力を尽くして勇戦した。しかし味方が散り散りに敗走するのを見て、ここを死に場所と思い定める。そして武名を後世に遺そうと多くの敵を討ち取り、ついに力尽きて討ち取られた。
長兄の玄蕃允と末弟の木工助も討死し、かくて浅井四兄弟は全滅したのです。
雅楽助と斎宮助の和解
先ほど紹介した雅楽助と斎宮助の対立と和解については、多くの人々が心を打たれるものでした。
こちらのエピソードも『浅井三代記』に残っているので、読んでみましょう。
……中にも物のあはれをとゝめしは浅井雅楽助兄弟そかし先年野良田合戦(のらだがっせん)御影寺合戦(みえいじがっせん)終て後朋輩ともとよりあひ(寄り合い)味方の働の僉議(せんぎ)なと侍れは(はべれば)斎宮助申けるはたれたれ(誰々)と申とも我等か祖父大和守働又は兄玄蕃なとか(等が)働ふりに越たる者家中には候はし(そうらわじ)と申けれは兄雅楽助大に怒てかほと(かほど)歴々多き中にて其荒言(こうげん。高言)は無益なりとはちしめ(恥じしめ)けれは斎宮助は歴々の中にて諫言せらるゝ事奇怪(きっかい)なりとてそれより近年中をたかひて(仲を違いて)居たりけるか二十七日(姉川大合戦前夜)の亥の刻(いのこく。深夜22:00ごろ)はかりに兄の雅楽助斎宮助か陣所へ行て明日討死とけん事は一定(いちじょう)なるへし今は遺恨もよしなし名残の盃をのむへしとて父尊霊を見たくは互の顔を見よとて目と目を見合せしはしか程は物をもいはす(言わず)有けるか雅楽助酒をこひ出し久しき郎等ともに出てのめやとて盃をめくらしたる(巡らしたる)はあはれにも覚えたり勇士たらん者は斯(かく)こそあらまほしけれといはぬ人こそなかりけれ……
※『浅井三代記』巻第十五「姉川合戦の事」
【意訳】此度の戦死者において、浅井雅楽助と斎宮助のほど哀情胸に迫るものはなかろう。
かつて野良田合戦(対六角)と御影寺合戦(対斎藤)の論功行賞が行われた場で、斎宮助が「我が祖父・大和守か、我が長兄・玄蕃允にまさる働きをした者はおるまい」と大言壮語した。
これを聞いた雅楽助が「歴戦の方々を前にホラを吹くものではない」と叱責すると、斎宮助は「公衆の面前で恥をかかせるとは、許せない」と激怒し、仲違いしてしまう。
しかし6月27日22:00ごろ、雅楽助は斎宮助の陣所を訪ね「明日は討死することは間違いあるまい。互いに思うところはあっても今は私怨を捨てて名残の酒を酌み交わそうじゃないか」と申し出る。
この言葉が胸に響いたか、斎宮助は雅楽助の顔をじっとのぞき込んだ。ことわざに「亡き父の面影を偲びたければ、兄弟互いの顔を見よ」と言うが、その通りである。
やがて雅楽助は持参した酒を取り出し、ご無沙汰していた郎党たちを集めて盃を交わす様子は、実に感慨胸に迫るものであった。
勇士ならば、このように清々しい気持ちで最期を遂げたいものだ。そう思わない者はいないだろう。
……先ほど紹介した死に物狂いの戦いぶりは、前夜に酌み交わした盃あればこそと思うと、より一層感動を覚えるのではないでしょうか。
終わりに今回は姉川大合戦で討死した浅井四兄弟について紹介してきました。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第16回放送「覚悟の比叡山」では、長政が「……浅井雅楽助……浅井斎(斎宮助の略)……」と口にしていたのが印象に残っています。
こうした背景を知ることで、大河ドラマがより深く味わえるかも知れません。今後も彼らのようなマイナー武将にスポットを当てて行きたいと思います。
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小和田哲男『近江浅井氏の研究』清文堂、2005年4月 宮島敬一『人物叢書 浅井氏三代』吉川弘文館、2008年2月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan



