【豊臣兄弟!】朝倉氏ついに滅亡…それでも“再興”を諦めなかった男・朝倉景嘉の決断と末路

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【豊臣兄弟!】朝倉氏ついに滅亡…それでも“再興”を諦めなかった男・朝倉景嘉の決断と末路

天正元年(1573年)8月20日、越前の戦国大名として栄華を誇っていた朝倉義景(鶴見辰吾)が、一門衆であった朝倉景鏡(池内万作)の裏切りによって自害させられてしまいます。

景鏡ら朝倉一族の多くは織田信長(小栗旬)に降伏し、間もなく勃発した越前一向一揆に滅ぼされたり、降伏したりと悲惨な末路をたどりました。

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ここに北陸の雄・朝倉氏は滅亡したのですが、最期まで朝倉再興を諦めずに苦闘した者もいたようです。

今回はそんな一人・朝倉景嘉(あさくら かげよし)を紹介したいと思います。果たして彼の志は、どのような結末を迎えたのでしょうか。

謎多き有力家臣

朝倉義景(画像:Wikipedia)

朝倉景嘉は生年不詳、朝倉義景はじめ朝倉一族においてどのような血筋であったかもはっきりしていません。

修理亮(しゅりのすけ)の官職を称しているため、同じ修理亮を称した朝倉景冬(かげふゆ)の末裔か、その名跡を継いだものと考えられています。

永禄11年(1568年)5月に足利義昭(尾上右近)が義景を訪問した際、出迎える朝倉一門の中で景嘉は五番目に列していました。

……朝倉一門ノ面々御馬太刀ニテ謁見ノ次第一番朝倉式部大輔二番朝倉孫三郎三番朝倉次郎左衛門四番朝倉孫六郎五番同修理亮(朝倉景嘉)同掃部助同出雲守次鳥羽右馬助同次郎右衛門同小三郎向駿河守三段崎権守溝江大炊助同三郎右衛門同左近衛門也……

※『朝倉始末記』巻第四「義昭公被為成于朝倉屋形次第附御能事(義昭公、朝倉屋形に成りなさる次第、附けたり御能のこと)」

この時、朝倉景鏡率いる大野郡司家との筆頭争いに敗れた朝倉景紀(かげのり)ら敦賀郡司家は不参のため、景嘉は朝倉家中で六番目の実力者であったことがわかります。

上杉謙信を頼って越後へ

上杉謙信。Wikipediaより。

そんな景嘉は朝倉宗家が滅亡し、一族もまた破滅の末路をたどっていく中、越後の上杉謙信(工藤潤矢)を頼って落ち延びました。

さて越後では謙信が景嘉を快く迎え入れ「織田勢を討ち払い、上洛を果たした暁には越前の一城を与える」と確約したそうです。

あれ、越前一国じゃないの?謙信って意外にケチ?……と思ったかも知れません。

しかし考えてみれば、景嘉はそもそも大名ではなく、一家臣に過ぎない立場です。城一つであっても御の字と言うべきでしょう。

ともあれ「毘沙門天の化身」謙信の後ろ楯があれば心強い……しかし天正6年(1578年)3月13日に謙信が急死したため、上洛の計画は頓挫してしまいました。

謙信には子がいなかったことから間もなく後継者争いが勃発し、上杉家中に居場所がなくなったせいか、景嘉は越後から姿を消します。

そのまま景嘉の消息は絶たれ、再び歴史の表舞台に登場することはなかったということです。

終わりに

今回は朝倉再興を志した朝倉景嘉の生涯をたどってきました。戦国大名としての朝倉氏は滅亡したものの、彼らの血脈は後世に受け継がれていきます。

大河ドラマでは描き切れないと思いますが、彼らの活躍にも興味を持ってもらえたら嬉しいです。

※参考文献:

松原信之『越前朝倉氏の研究』吉川弘文館、2025年10月 松原信之編『朝倉義景のすべて』新人物往来社、2003年7月

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