『豊臣兄弟!』お市の長政介錯は史実?義昭のその後、義景斬首の実際…怒涛の展開、第17回放送を考察

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『豊臣兄弟!』お市の長政介錯は史実?義昭のその後、義景斬首の実際…怒涛の展開、第17回放送を考察

大河ドラマ「豊臣兄弟!」第17回「小谷落城」、足利義昭(尾上右近)が二度目のお忍びで武田信玄(高嶋政伸)に挙兵を促し、武田勢は三方ヶ原の合戦で徳川家康(松下洸平)を撃破します。

このまま一気に上洛、織田信長(小栗旬)万事休すかと思いきや、まさかの餅を喉に詰まらせて信玄は急死。天が味方した信長は義昭を追放し、朝倉義景(鶴見辰吾)そして浅井長政(中島歩)を滅ぼしました。

小一郎(仲野太賀)と秀吉(池松壮亮)はお市(宮崎あおい)の救出に向かい、長政と相撲をとってお市に刀を貸したかと思えば、何とお市が切腹する長政を介錯(斬首)するまさかの展開に。

第17回「小谷落城」今週も気になるトピックを振り返ってまいりましょう!

武田信玄は本当に餅を喉に詰まらせて死んだ?

領民たちと楽しく餅搗き。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

せっかく信長が仕込んだ毒を免れたのに、自分が搗いた餅を喉に詰まらせて死んでしまうまさか過ぎる展開……確かに現代でも、毎年お正月になると「白い悪魔」に命を奪われる方がいらっしゃいますが……時に元亀4年(1573年)4月12日でした。

武田信玄の死因については諸説あり、持病の労咳(ろうがい。肺結核)や肺炎、『甲陽軍鑑』では胃ガンもしくは食道ガンではないかと言われています。

また後世になると狙撃を受けた銃創が元で亡くなったという『藩翰譜』の説や、日本住血吸虫病(寄生虫病)によって命を落としたとする説も唱えられました。

さて、死期を悟った信玄は遺言を残します。

……三年の間我死たるを隠して国をしづめ候へ跡の儀は四郎むすこ信勝十六歳の時家督なり其間は陣代を四郎勝頼と申付候但し武田の旗はもたする事無用なりまして我そんし(孫子)のはた、将軍地蔵の旗八幡大菩薩の小旗何も一せつ持すべからず太郎信勝十六歳にて家督初陣の時尊師(孫子)の旗斗り(ばかり)残しよ(余)の旗は何(いずれ)も出すべきなり……

※『甲陽軍鑑』品第卅九(三十九)「信玄公御他界之事付御遺言の事」より

【意訳】3年間は我が死を隠し、領国安定に努めること。家督は孫の武田信勝(のぶかつ)が16歳になったら継がせること。それまでの間は諏訪四郎勝頼(信勝父)が後見すること。ただし武田家伝来の旗印を持たせてはならない。まして我が孫子(風林火山)の旗や将軍地蔵の旗、八幡大菩薩の旗など何一つ持たせてはならない。信勝が初陣を飾る時は風林火山の旗以外すべて出すこと。

よほど旗印を大切にしていたことがうかがえるほか、諏訪家を継いだ勝頼に武田家を継がせてなるものかと言わんばかりですね。

果たして大河ドラマで武田家の「その後」がどのように描かれるのか、注目していきましょう。

追放された足利義昭、その後どうなった?

京都を追われる義昭。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

元亀4年(1573年)7月、信長に敗れて京都から追放された足利義昭は、その後もしぶとく生き延び続けました。

河内(大阪府南東部)・和泉(大阪府南西部)・紀伊(和歌山県)などを放浪し、天正4年(1576年)2月に毛利輝元(濱正悟)を頼って備後国鞆(とも。広島県福山市)に腰を据えます。

この鞆という地はかつて初代室町将軍・足利尊氏が雌伏の末に京都復帰を果たしたという縁起のよい土地でした。きっと義昭も、ここから幕府再興を志したことでしょう。

その後も毛利の後ろ盾を得ながら甲斐の武田勝頼や越後の上杉謙信(工藤潤矢)らに対して信長討伐の命令を発しています。

ちなみに京都から追放されてはいましたが、征夷大将軍の職まで失ったわけではありません。だから幕府の本拠地が京都室町から備後国鞆へ移っただけで、幕府自体が滅亡したわけではない「鞆幕府」と解釈する説もあるようです。

義昭が京都へ帰ったのは天正15年(1587年)10月、副将軍・毛利輝元の軍勢に護られながら約15年ぶりの帰京でした。

しかし天下の政権を握ることはなく、明けて天正16年(1588年)1月に義昭は将軍職を朝廷に返上します。これにより、室町幕府は名実ともに滅亡したと言えるでしょう。

なお義昭自身は慶長2年(1597年)8月28日に60歳で波乱の生涯に幕を下ろしたのでした。

朝倉景鏡が義景を斬ったのは本当?

義景を斬る景鏡。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

およそ百年の栄華を誇った一乗谷を信長にくれてやるくらいなら、すべて破壊し尽くしてやろう……どこまでもゲスな朝倉義景から民たちを守るため、やむなくその首を刎ねた朝倉景鏡(池内万作)。実際はどうだったのでしょうか。

『朝倉始末記』によると、信長との合戦に敗れた義景が「最早これまで」と嫡男の愛王丸(あいおうまる)を手にかけ自分も死のうとしたところ、景鏡は一乗谷を放棄して再起を期するよう進言しました。

そして劇中の通り賢松寺(福井県大野市)に連れ込むと、自軍をもって義景一家を完全包囲して自害に追い込みます。

かねて身の かかるべしとも 思はずば 今の命の 惜しくもあるらむ

【義景の辞世】まさかこんな事になるなど思いもしていなかったから、命が惜しいのも無理はなかろう(意訳)

さて、義景の首級と妻子らを信長に差し出した景鏡は、降伏を許されて所領を安堵することができました。

しかしその後、越前一向一揆との抗争において無残な最期を遂げることになります。朝倉一族の裏切り者である景鏡に同情する者はいなかったことでしょう。

今回は「民のためにやむなく主君を斬った」と同情的な脚色が加えられており、この辺りは視聴者の予想をよい意味で裏切ったのかも知れませんね。

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浅井長政は豊臣兄弟と相撲をとった?

豊臣兄弟と相撲をとる長政。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

劇中では何だかあっさりと死を選び、何とか説得したい豊臣兄弟と相撲をとっていた長政ですが、実際のところはどうだったのでしょうか。

『浅井三代記』巻第十八「浅井長政最後之事」を読んでみると、最後まで勇ましく戦った様子が描かれています。長いので、一部を抜き出してみましょう。

……長政は妻子共をそこ〳〵と相かたつけ給へは今は心にかゝる事なし花やかに軍すへしとて浅井石見守赤尾美作守同興七郎西野壱岐守彼等四人の者共に宣ひけるは今ははや心にかゝる事なしいさ切て出一軍せんとて手廻小姓五百計にて討て出たまふ……

【意訳】長政は妻子らを信長に引き渡し、重臣の浅井亮親(すけちか。石見守)・赤尾清綱(あかお きよつな。美作守)・赤尾与七郎(よしちろう)・西野壱岐守(にしの いきのかみ)に言った。「これで心残りはなくなった。潔く出陣して、華やかに戦ってやろうではないか」と500ばかりの軍勢を率いて本丸から出撃した。

……長政其日の裳束には黒糸綴の鎧に金襴の袈裟をかけ朱柄の長刀をふつて門をひらき切て出たまへは寄手我討取高名せんとて猛勢の中に引包む長政の勢五百計一足もひかすあたるを幸と切伏せ追まくりたまへは寄手猛勢なりとは申せとも一町面崩れ散々はつと引けれは丸の中へそ引にける……

【意訳】長政は黒糸縅(くろいとおどし)の鎧に金襴の袈裟(僧衣)といういでたち。柄を朱色に塗った薙刀を奮い、門から飛び出して織田の大軍へ斬り込んだ。織田勢は「討ち取って名を上げよう」と群がり包囲するも、長政の軍勢は500ほどの少人数ながら一歩も退かず、当たるを幸いと斬りまくる。いくら織田勢の勢いがよかったとは言え、切り崩されて一時退却。それを見た長政らも本丸へと引き上げた。

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お市は本当に長政を介錯(斬首)した?

長政の介錯を務めるお市。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

かくして存分に武勇を示した後、長政は本丸近くの赤尾曲輪(あかおぐるわ。清綱邸)にて自害して果てます。

……浅井日向守長政を引取御介錯可仕(つかまつるべし)と申けれは心得たりとて頓て(やがて)御腹めされける日向守も頓て介錯仕る長政満る年は二十九をしまぬ(惜しまぬ)者はなかりける則(すなわち)日向守も腹かき切て伏たりける……(中略)……誠に此(この)長政十六より武将を取(とりて)一度もにふき(鈍き)事あらさりけるか最後のきは迄(際まで)かく手はやく御腹めされし事古今まれ成剛将なりとて敵も味方も感しける……

【意訳】浅井日向守(ひゅうがのかみ)は長政を保護し「それがしが介錯つかまつる」と申し、長政は心得たと腹を切った。日向守は速やかに介錯する。長政29歳。その死を惜しまぬ者はなかった。日向守も後を追うため腹を掻き切り、うつ伏せになって絶命する……(中略)……この長政は16歳より武士として生き、一度として鈍いこと≒未練の振る舞いなどはなかった。そして最期まで迷いなく腹を切った潔さは、古今まれなる剛将であると、敵味方分け隔てなく感銘を受けたのである。

……ということです。ここに近江の雄・浅井一族は歴史の表舞台から姿を消したのでした。

これを踏まえて大河ドラマを見直してみると、また違った感想が湧くかも知れませんね。

第18回放送「羽柴兄弟!」

第18回放送「羽柴兄弟!」NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

秀吉(池松壮亮)は織田家家老に昇格し、北近江を拝領。領地に長浜城を築いて城持ち大名となり、小一郎(仲野太賀)と共に羽柴姓を名乗る。小一郎は城下の統治を任されるが、人手が足らずてんてこまい。半兵衛(菅田将暉)から、子飼いの家臣を増やすべきだと助言され、有能な家臣を求めて選抜試験を行うことに。多くの志願者が集まる中、石田三成(松本怜生)、藤堂高虎(佳久創)ら個性的な若者たちが最終試験に残る。

※NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。

次週はついに城主となった秀吉、そして小一郎のてんやわんやが描かれるようです。次世代を切り拓く俊英たちが結集し、ドラマに新しい風を吹き込んでくれることでしょう。

今週はシリアス回だったので、恐らく次週はコメディタッチに描かれる息抜き・箸休め回と予想されます。

どんどん立身出世街道をひた走る豊臣兄弟の背中を、これからも追い駆けていきましょう!

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