【豊臣兄弟!】えっ生き延びるの?第17回「小谷落城」で再登場した斎藤龍興(濱田龍臣)の“生存説”を考察

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【豊臣兄弟!】えっ生き延びるの?第17回「小谷落城」で再登場した斎藤龍興(濱田龍臣)の“生存説”を考察

『豊臣兄弟!』第9回「竹中半兵衛という男」で、織田信長(演:小栗旬)によって美濃国主の座を追われた斎藤龍興(演:濱田龍臣)。

その後、第11回「本圀寺の変」では、三好三人衆とともに将軍足利義昭(演:尾上右近)を襲撃。本圀寺に火を放つことに躊躇する三人衆に対し、「手ぬるいのう。なぜ火を放たぬ。(中略)東大寺を燃やしたお主らが……」と挑発する姿が印象的でした。

そして第17回「小谷落城」では、浅井長政(演:中島歩)の援軍として近江に陣を進めるも、味方の裏切りに衝撃を受け、一乗谷へ退こうとする朝倉義景(演:鶴見辰吾)に意見する場面で、久々に登場します。

龍興は、一般的にはこの直後、朝倉軍の退却戦で“しんがり”を務め、討死したとされています。ところがドラマでは、その決定的な最期の場面は描かれませんでした。

となると、『豊臣兄弟!』は、斎藤龍興の“生存説”を採用しているのではないか、そんな想像もふくらみます。

今回は、この「斎藤龍興生存説」について考えてみましょう。

稲葉山城での斎藤龍興。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

ドラマに描かれた消えた龍興

1573年(天正元年)8月、武田信玄(演:髙嶋政伸)の死を知った織田信長は、一気に浅井長政、朝倉義景の征伐を目指します。

信長包囲網の崩壊を悟った義景は重い腰を上げ、長政の“あとまき”として2万余の兵を率い、小谷城北方・木ノ本付近に陣を構え、信長の来攻に備えました。

しかし8月8日、浅井家重臣の阿閉貞征が織田方に降り、朝倉攻めの先手となると、義景は陣を引き一乗谷へと退却します。

斎藤龍興(左)と朝倉義景(右)。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

『豊臣兄弟!』では、このときの義景と龍興のやりとりが次のように描かれています。

「話にならぬ、引き上げじゃ」(義景)

「お待ちあれ!それこそ敵の狙い、これは罠じゃ」(龍興)

「ならば、お手前がしんがりを務めればよかろう。積年の恨み晴らすがよい」(義景)
そう言い残して陣を引きはらう義景。

それに対し、龍興は呆れたように、苦虫を噛み潰した表情を浮かべて言い捨てます。
「一乗谷に居すぎたか。まるで井の中の蛙じゃ」

そこで場面は、退く朝倉勢に織田勢が襲いかかるシーンへと移ります。

龍興は斬りかかる雑兵を斬り払いつつ、
「くそっ!」
の一言を残し、画面から姿を消すのでした。

定説では討死だが生存説も残る

ドラマでは、朝倉勢撤退の理由を義景の「一乗谷への執着」としています。しかし史実では、朝倉氏と関係の深かった平泉寺玉泉坊が信長に内応したことが、退却の決定的な要因でした。

この8月8日の退却戦において、龍興もまた武運拙く、木ノ芽峠近くの刀根山で討死したと伝わります。

また『武家事紀』によれば、龍興の戦死は8月10日。かつての重臣・氏家直昌の家臣・宮河但馬守に討たれ、墓は敦賀市疋田の定広院にあるともいわれています。

この墓は現在では別人のものと判明していますが、同寺の過去帳には、

「美濃守龍興公死す。橋東寺坂口で立腹切り、首は信長取り行き、体は定広院に納む」
と記されているのです。

刀根山で奮戦する斎藤龍興(Wikipedia)

しかし、『豊臣兄弟!』でのシーンで、その最期が曖昧であったように、古くから龍興には生存説が囁かれていました。

1567年(永禄10年)、稲葉山から退去した際、龍興が逃れた先は長島の願誕寺でした。ここから、龍興と本願寺の深い関係がうかがえます。曾祖父・長井新左衛門尉と本願寺重臣・下間氏との縁戚関係が、その背景にあったともいわれます。

1570年(元亀元年)8月、龍興は顕如らとともに野田・福島の戦いで三好三人衆を支援。その後も本願寺の援助を受けて美濃侵攻を企図し、顕如から黄金と大刀を贈られています。

顕如画像幅/石川県立歴史博物館所蔵(Wikipedia)

こうした縁から、刀根山を落ち延びて石山本願寺へ逃れ、再起を期したものの、足近(現在の羽島市)の寺で病死したという説もあります。同地の願教寺には、龍興の墓と父・義龍の位牌が伝えられています。

また、龍興は臨済宗妙心寺派の快川紹喜(かいせんじょうき)とも親しかったため、1569年(永禄12年)3月に、富山の興国寺に身を隠したという伝説も残ります。

龍興はここで雌伏し、天下の情勢をみていたものの、もはや美濃回復の手立てがないと悟ると、九右ェ門と改名し、付近の原野を開拓し、経力村と名付けたこの地に住みついたというのです。

そして、1611年(慶長16年)、出家した龍興は興国寺の住持となります。同寺には、龍興の鎧鞍と念持仏(木造阿弥陀如来立像)が伝えられており、1632年(寛永9年)6月19日に86歳で亡くなったとされるのです。

無能な武将ではなかった斎藤龍興

美濃国主であった頃の龍興は、義景同様の「井の中の蛙」と評されても仕方なかったのかもしれません。

重臣たちに辛くあたる斎藤龍興(左)。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK-4

しかし、美濃を逐われて以降の龍興は、信長を悩ませ続けました。討死したのか、天寿を全うしたのか、その最期は定かではありません。

しかし、一つだけ確かなことがあります。龍興という人物は、国主の座を失ってからこそ、戦国武将としての本領を発揮したということです。

そのように考えると斎藤龍興は、決して無能な武将ではなかったということが言えるのではないでしょうか。

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※参考文献
横山住雄著 『斎藤道三と義龍・龍興』戎光祥出版

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