『豊臣兄弟!』なぜ豊臣秀吉が天下を取れたのか?〜朝廷の権威を利用し天下人の地位を築く[後編]
豊臣秀吉の天下統一によって、日本の戦国時代はひとまず収束へと向かいました。
では、数多の武将がいる中で、なぜ秀吉が天下統一を果たせたのか。本稿ではその理由を2回に分けて紐解きます。
圧倒的な兵力と速力によって敵を圧倒した戦術面を考察した[前編]に続き、[後編]では秀吉が朝廷の権威を巧みに取り込み、いかにして天下人としての地位を築いていったのかを解説します。
※[前編]の記事はこちら↓
『豊臣兄弟!』なぜ豊臣秀吉が天下を取れたのか?〜本能寺後に光秀を圧倒した「兵力と速さ」の正体[前編]
「武家の棟梁」から「朝廷の中枢」へ
1582年(天正10年)、本能寺の変に倒れた主君織田信長の弔い合戦・山崎の戦いで、明智光秀を倒すと、豊臣秀吉はまるで堰を切ったように、天下人への道を駆け上がっていきます。それは、信長の後継者争いを一気に制した者だけが持ち得る勢いでした。
1583年(天正11年)には、織田家筆頭家老の柴田勝家を賤ケ岳の戦いから北の庄へ追い詰め滅ぼすと、翌年には小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄連合軍と戦います。戦いはほぼ互角でしたが、家康・信雄ともに秀吉の圧倒的な兵力の前に、早期に和議を結ばざるを得ませんでした。
そして、この翌年の1585年(天正13年)、早くも秀吉は天下取りを狙うべき行動に出ます。それは、「関白」の座を狙うことでした。
ただ農民出身の秀吉が関白になるためには、関白になりうる家柄と縁を結ばなければなりません。そこで、五摂家の一つ近衛前久の猶子となり、「藤原」氏を称したのです。羽柴秀吉転じて、藤原秀吉の誕生でした。
少し余談になりますが、秀吉が木下から羽柴へ姓を変えたのは1573年(天正元年)、浅井長政を滅ぼした功で、近江長浜城主となった時です。
それからずっと羽柴でいたかというと、実はそうではなく1582年(天正10年)から約3年間は正式には「平」を名乗っていたことが知られています。つまり、本能寺の変で信長が没し、山崎の戦いで光秀を滅ぼした後は、源氏と並ぶ武家の頂点・平氏を名乗っていたのです。
これは、すでにこの頃から秀吉には武家の棟梁として、朝廷秩序の中で自らの地位を位置づけようとする計画があったことが伺えます。
そうした経緯を経て、秀吉は関白に任ぜられ、さらに翌年の1586年(天正14年)には太政大臣に就任、朝廷首班となり、後陽成天皇から「豊臣」の姓を賜ったのです。
惣無事令という勅命で戦国を終わらせる関白・太政大臣となった秀吉は、朝廷の権威に基づき「惣無事令」を発布しました。この法令は簡単に言えば、大名同士の私闘を禁じるというものです。
そもそも戦国大名たちは、自分の家臣や領民のために自領を守り、利あれば領土を拡大するために、隣接する大名同士で争っていました。
だから、大名たちも農民から成り上がった得体の知れない秀吉に、「今後は勝手に争って領地の取り合いをしてはならぬ」と言われてもおいそれと従うはずはありません。
長年秀吉と争ってきた大名や織田家中の武将はともかく、畿内から遠く離れた九州の島津氏や関東の北条氏が、惣無事令に従わないのは当然であったのです。
しかし秀吉は、天皇を補佐する関白でした。つまり秀吉の命令に従わないということは、朝廷そのものに逆らうことを意味したのです。
秀吉は、「勅命である惣無事令に違反した大名を討伐する」という大義名分を掲げ、1586年(天正14年)の九州征伐で島津氏を屈服させ、続いて1590年(天正18年)の小田原征伐で後北条氏を滅ぼし、天下統一を成し遂げたのです。
「羽柴」の苗字を与えることで大名を一門化このようにして天下を掌握した秀吉は、政権維持のために関白家の力を利用します。それが、「羽柴」苗字の乱発でした。
豊臣政権下では、徳川家康をはじめ、その中核をなす大名の多くが「羽柴」を名乗っていました。これは、秀吉が彼らに羽柴の苗字を与えたためであり、与えられた大名たちは、秀吉の一門衆として位置づけられたのです。
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『豊臣兄弟!』秀吉と小一郎はなぜ“羽柴”に?やがて徳川家康まで名乗らされた姓の正体しかも彼らは、大納言・中納言・少将・侍従といった官名で呼ばれています。例えば家康は羽柴武蔵大納言、前田利家は羽柴加賀中納言、島津家久は羽柴薩摩侍従といった具合です。
このような呼び名は、大名が武家でありながら、同時に公家的な身分秩序の中にも組み込まれていたことを意味しています。
すなわち秀吉は、朝廷における最高位という立場を利用し、諸大名を任官させることで、彼らを「武家公家衆」として再編成し、自らの統制下に組み込んでいきました。
秀吉には秀長や秀次ら一門衆のほかに、譜代と呼べる家臣はほとんどいませんでした。だからこそ秀吉は、武家摂関という立場と朝廷の権威を最大限に活用し、「羽柴」という苗字と官位を諸大名に与えることで、新たな主従関係と政治秩序を創り出していったのです。
このようにして秀吉は、「天下人」という地位を完成させたのです。
※参考文献
黒田基樹著 『羽柴を名乗った人々』 角川ソフィア文庫
日本史深堀講座編 『豊臣兄弟と天下統一の舞台裏』 青春文庫
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