朝ドラ「風、薫る」新宿中村屋を築いた波乱の実業家!丸山忠蔵(若林時英)の実在モデル・相馬愛蔵の生涯
朝ドラ「風、薫る」には魅力的な人物が数多く登場します。若林時英さんが演じている、直美が実習で受け持っている患者・丸山忠蔵もその1人です。モデルとなったのが、明治から昭和を生きた実業家で、新宿中村屋創業者の相馬愛蔵(そうま・あいぞう)という人物でした。
相馬愛蔵は、信州安曇野の名家に生まれ、若い頃から学問、キリスト教、養蚕研究、社会活動に関心を広げていきます。やがて『蚕種製造論』を著すなど、養蚕家としても将来を嘱望されていました。
しかし、明治から大正へと時代が移るなかで、日本の都市文化や食生活は大きく変化。愛蔵は新時代の中で、自らの目と判断を頼りに、養蚕家からパン屋へと進路を変えました。
その後、愛蔵は妻の黒光(こっこう)とともに中村屋を育て、パン、菓子、カリー、文化サロンの分野で力を発揮します。しかし、ようやく足場を築いたと思った時、戦争と空襲、さらに戦後の混乱というまさかの事態が訪れました。
相馬愛蔵の生涯について見ていきましょう。
※朝ドラ「風、薫る」実在モデル紹介記事:
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丸山忠蔵。モデルとなったのが新宿中村屋の創業者である相馬愛蔵である。
安曇野に生まれた名家の少年、悲しい別れと信仰の日々明治3(1870)年、相馬愛蔵は、信濃国安曇郡白金村(現在の長野県安曇野市)で生を受けました。父は相馬安兵衛、母はちうです。
相馬家は、祖父の代まで庄屋を務めた地元の名家でした。しかし、愛蔵が生まれた頃には、家運は次第に傾いていました。
生後間も無く父・安兵衛が、明治9(1876)年には母・ちうが世を去ります。愛蔵は、幼くして両親を失ってしまいました。
そのため、幼少の愛蔵は兄夫婦によって養育されます。
明治11(1878)年、愛蔵は穂高学校に入学。明治17(1884)年には長野県中学校松本支校(現在の松本深志高校)に進みました。ここで、のちに思想家・社会運動家となる木下尚江と知り合っています。
明治20(1887)年、愛蔵は上京して東京専門学校(早稲田大学)に入学。在学中にはキリスト教に触れてています。愛蔵は牛込教会に通い、押川方義や内村鑑三らと出会い、彼らからも影響を受けていました。
明治維新後の日本では、新しい教育制度や思想が広がっていました。愛蔵もまた、地方の名家の子弟でありながら、東京で近代的な学問と信仰に触れた青年だったのです。
明治23(1890)年、 愛蔵は東京専門学校を卒業。卒業後の進路として考えたのが、北海道で農園開拓でした。
しかし、兄夫婦の反対もあり、計画は断念。その後、故郷の長野県穂高で養蚕の研究に取り組むことになりました。
当時の日本において、生糸は重要な輸出品です。信州は養蚕の盛んな地域でもあり、愛蔵の研究は地域の産業と深く結びついていました。
明治27(1894)年、愛蔵は研究成果をまとめた『蚕種製造論』を出版。さらに明治33(1900)年に出版した『秋蚕飼育法』は版を重ねたとされ、養蚕が本業になりつつありました。
一方で、愛蔵は禁酒会活動やキリスト教伝道にも関わります。明治24(1891)年には東穂高禁酒会を立ち上げ、社会浄化や節制勤勉を広めようとしたとされています。
この時期の愛蔵は、単なる研究者ではありませんでした。産業、信仰、社会改良を結びつけながら、地方から新しい時代を見つめていたようです。
星良との運命的な出会いと結婚、そして中村屋へ
やがて愛蔵の人生に大きな出会いが訪れます。
明治30(1897)年、愛蔵は星良(ほしりょう)と結婚。二人は東京の牛込払方町にあった日本基督教会で式を挙げ、その後、穂高に帰ります。愛蔵は数えで26歳、良は21歳でした。
良は宮城女学校、フェリス英和女学校、明治女学校で学んだ女性です。
文学的な素養を持ち、のちに「黒光」という筆名を使うようになりました。この筆名は明治女学校の校長だった巖本善治から授かったようです。
しかし、穂高での暮らしは、黒光にとってなじみにくいものでした。愛蔵もまた、地方にとどまり続けるだけでなく、新しい道を探し始めます。
明治34(1901)年、相馬夫妻は上京。そして同年12月30日、本郷区森川町でパン屋「中村屋」を開業して商売を始めました。中村屋はもともとあった店を居抜きで買い取り、店名もそのまま引き継いだとされています。
当時、パンはまだ一般の食卓に深く根づいていたわけではありませんでした。愛蔵と黒光は、なじみが薄く、なおかつ先行店との差が大きすぎない商売として、パン屋に目をつけたようです。
明治37(1904)年には、クリームパンとクリームワッフルを開発。このクリームパンは木村屋のアンパン、ジャムパンに並ぶ「日本の三大菓子パン」に成長していました。
やがて中村屋は、明治40(1907)年に新宿へ支店を出店。明治42(1909)年には現在地へ移転して、和菓子の販売も始めています。
中村屋の特徴は、食べ物を売る店でありながら、文化人や芸術家が集う場にもなったことです。
相馬家には、荻原碌山を中心に多くの芸術家が出入りするようになりました。これが、のちに「中村屋サロン」と呼ばれる交流の場になります。
中村屋サロンには、荻原碌山、高村光太郎、中村彝(なかむら・つね)ら多くの芸術家が出入りしました。相馬夫妻は、物心両面で芸術家を支えたとされています。
大正4(1915)年には、インド独立運動家ラス・ビハリ・ボースを中村屋でかくまいました。
後にボースは相馬夫妻の長女俊子と結婚。ボースの手ほどきで作られた「純印度式カリー」は、中村屋喫茶部の看板メニューになりました。
中村屋は、単なる商店ではありませんでした。そこは、食文化、芸術、国際交流、社会運動が交差する、不思議な磁場のような場所だったのです。
相馬黒光(本名:良)。愛蔵を支え、二人三脚で中村屋の礎を築いた。
震災、戦争、不法占拠…苦難の日々の果てに徐々に不吉な足音が中村屋に忍び寄ってきます。
大正12(1923)年、中村屋は個人商店から株式会社へ改組。同じ年に関東大震災が起こると、中村屋はパンや饅頭を夜通しで製造し、被災者に特価で提供しました。
昭和2(1927)年には店内に喫茶部を開設。純印度式カリーやボルシチは、この喫茶部の看板メニューとして注目されました。
しかし、昭和の時代は愛蔵に厳しい試練をもたらします。
昭和20(1945)年5月25日の空襲で、中村屋は焼失。さらに終戦後、新宿大通り沿いには闇市が広がり、中村屋の敷地も不法占拠されてしまいます。
愛蔵は昭和22(1947)年に訴訟を起こし、土地を取り戻したのは昭和28(1953)年のことでした。
若き日に明治の近代化を見つめ、壮年期に大正の都市文化を育てた愛蔵は、晩年に戦争と敗戦後の混乱を経験することになったのです。
昭和23(1948)年、長男の相馬安雄(やすお)が2代目社長に就任。愛蔵は会長に退きましたが、その後も老人福祉を目的とする「千一運動」などに関わりました。
昭和26(1951)年、愛蔵は脳軟化症を発症。それでも翌昭和27(1952)年には、黒光との共著『晩霜』を出版するなど精力的に活動していました。
昭和29(1954)年2月14日、相馬愛蔵は自宅で病没。享年83歳でした。墓所は東京都府中市の多磨霊園にあります。
相馬愛蔵は、日本近代の食文化と都市文化に、大きな足跡を残した一代の巨人。
そして彼の生涯は、安曇野の養蚕家から新宿の実業家へ、そして商いを通じて文化と人を結んだ、近代日本の橋を架ける歩みでした。
※朝ドラ「風、薫る」実在モデル紹介記事:
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