【豊臣兄弟!】裏切りか不幸な濡れ衣か?信長の甥・織田信澄(緒形敦)「本能寺の変」で迎える悲劇的な最期
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第19話『過去からの刺客』。1月から始まった2026年の大河も、すでに半分の年月が流れ新章が始まりました。
夢と希望に満ち溢れた少年ジャンプのようなノリで、故郷の中村を旅立った豊臣兄弟。あれから、あっという間に話は進み「羽柴姓」を名乗り城持ち大名になった藤吉郎こと羽柴秀吉(池松壮亮)は、のちに有名な武将となる家臣たちを揃えました。
そして、織田信長(小栗旬)の息子たち“織田兄弟”も登場。前回は、信長の家督を継ぐ嫡男・信忠(小関裕太)と三男・信孝(結木滉星)を、演じる俳優さんとともにご紹介しました。
※嫡男・信忠と三男・信孝の紹介記事:
『豊臣兄弟!』初登場した信長の息子たちに待つ過酷な運命…史実で見る織田信忠・信孝の早すぎた最期今回は、信長ファミリーではあるものの、弟・信勝(中沢元紀)の長男(つまり信長の甥っ子)・織田信澄をご紹介したいと思います。
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信長の弟・信勝の長男 織田信澄( 緒形敦)NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイト
信長の弟、信勝の長男・織田信澄を演じる緒形敦今回、扮装のビジュアルが紹介された織田信澄(おだ のぶずみ)。演じるのは、緒形敦さんです。
父は緒方直人さん、母は仙道敦子さんと両親も俳優、祖父も俳優の緒形拳さんという三代続いた俳優一家の出身です。
緒方直人さんといえば、大河『信長KING OF ZIPANG』(1992)では、主演の織田信長を演じています。さらに、緒形拳さんはNHK大河ドラマの常連。大河『太閤記』(1965)では豊臣秀吉を演じました。
緒形敦さん自身は、大河は『いだてん〜東京オリムピック噺〜』(2019年)に出演しています。『豊臣兄弟!』では織田信長(小栗旬)の愛する弟でありながらも謀反を起こし、殺された織田信勝(中沢元紀)の息子・信澄の役です。
「信澄の奥底にあったであろう細かな心情を汲(く)み取り、丁寧に演じていきたいと思います。」
と緒形敦さん。
25〜27歳という若さでその人生を終えた、若き織田のプリンス信忠・信孝と同様に、織田信澄も「本能寺の変」により運命が激変し、やはり27歳ごろにその人生を終えることになってしまったのでした。
信長の弟・信勝の長男 織田信澄を演じる 緒形敦さん。NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイト
信長のトラウマ弟・信勝の嫡男、織田信澄織田信勝(信行)の嫡男として生まれた織田信澄。生年日は諸説あり、確定することができません。織田信長の甥で、その嫡男である従兄弟の織田信忠とはほぼ同年代であったと想定されています。
弘治2年(1556年)父・信勝は兄に対して謀反の企てを起こして敗北。永禄元年(1558年)、暗殺されました。「豊臣兄弟!」では、信勝が信長の病気見舞に訪れたふりをして寝所に入り、殺そうとしたところを柴田勝家(山口馬木也)が斬り殺すシーンが描かれていました。
信長は、折に触れ何度もその場面を思い出しては苦しみ、お市いわく「兄は信勝がトラウマで人間不信になっている」と小一郎(仲野大河)に伝えてましたね。
実は、勝家が信勝を直接斬ったという史料は伝わっていないそう。
▪️『信長公記』による逸話『信長公記』(太田牛一の著)によると、
信長は仮病で信勝を清洲城に誘い出し、信勝が見舞いに行くと、清洲城の北櫓、天守閣の次の間で待っていた信長の臣・河尻秀隆と青貝某が信勝を殺害。
▪️『信長記』による逸話『信長記』(江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵の伝記)によると、
山口飛騨守、長谷川橋介、河尻青貝の3人が信長の寝所で信勝を討つつもりが失敗。信勝は母親の寝所に向かって逃走するも、廊下にて信長の乳兄弟・池田恒興が殺害。
ほか、信長関係の史料によって関わった人間や場面は違いがあります。
けれども、信勝の子供たちは殺されることなく助命されて、信長の命により柴田勝家のもとで育てられました。
理由は、信長・信勝の母である土田御前の助命嘆願があった・信長は身内や家臣に甘いところがあった・血縁者を減らすのが忍びなかったからなどが挙げられています。
そして、幼子(信澄)が成長するまで父親の恨みを覚えているとは思えないため「将来、自分の息子たちの忠臣になるよう教育しよう」と考えた……ともいわれています。
昔は仲が良かった信長の弟・信勝(中沢元紀 )。NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイト
織田家を支える人物として活躍信澄は、織田本家と区別をするために庶流・分家である津田氏に入り(養子縁組的な扱いを受けた)津田姓を名乗ったといわれています。
元亀2年(1571年)には、佐和山城を引き渡して織田家に降った浅井氏旧臣、磯野員昌の養嗣子になりますが、磯野姓を名乗ったかは不明です。
天正(1574年)2月に美濃岐阜城で開かれた信長主催の茶会に御通衆(※)の「御坊様」として出席。
同年3月に信長が東大寺正倉院の香木・蘭奢待を切り取った際にも、「津田坊」と童名で呼ばれているので、養子になるという約束だけで正式な縁組はまだ行われていなかったのかもしれません。
※将軍や大名の側近に侍して相手をする職名
▪️越前一向一揆征伐が初陣天正3年、磯野員昌と共に越前一向一揆征伐に従軍したのが信澄の初陣です。その戦いでは、柴田勝家・丹羽長秀とともに鳥羽城攻めを行い、500〜600の一揆勢を討ち取ったそうです。
また、同年9月25日、京から来た公家の吉田兼見を馳走して信長への取次役を務めたり、10月に兼見が信長に礼参した際には、信澄が進物を披露したりという働きも。
信澄は若い頃から信長の信頼を得ていたようです。
その後は近江に領地を与えられ、明智光秀の丹波攻略に参戦し光秀の娘を正室にもらい、天正七年(1579年)には長男も生まれています。さらに、石山本願寺との戦いや荒木村重征伐にも参加、信長の趣味であった相撲興行でも奉行を務めました。
単純に腕っぷしに優れた者を決めるだけではなく、戦いぶりなども観察して優れていると思われる人材を発掘する現場ともいわれた相撲大会。そこで、堀秀政や蒲生氏郷などと一緒に奉行を務めたということは、「重臣」同等と扱われていたのかも知れません。
さらに、信長の一大軍事パレードである『京都御馬揃え』の際も、一門衆の五番目として、信長の長男・次男・弟・三男のという場所に位置しました。
その後もさまざまな活躍をし、丹羽長秀とともに家康の接待も命じられた信澄。弟には裏切られたとはいっても、やはり自分の血が繋がっている甥っ子です。「今後の織田家を支える人物」候補として信長は信頼し、期待をかけていたのではないでしょうか。
順風満帆に見えた信澄の人生は、この後大きく変わったのでした。
「天下第一」に名香・正倉院に収蔵されている香木、蘭奢待。wiki
本能寺の変で明智側の人間と疑われ天正10年6月2日、明智光秀が約13,000人もの大軍を率い、京都・本能寺に宿泊中の織田信長を急襲した『本能寺の変』。
なぜこんなことを……には諸説あります。さまざまな事件が積み重なって爆発した怨恨説、主君に変わり天下を取りたかった野望説、苛烈な信長に対する恐怖説、光秀が支えていた足利義昭ほか「黒幕」と組んだ陰謀説など。
いずれにしても光秀が謀叛を起こしたことには変わりありません。そのため、信澄は光秀の娘婿だったたけに「この謀叛に加担しているに違いない」と疑う噂が流れました。
疑心暗鬼になった信長の三男・信孝と、「長秀は友であり、兄弟である」とまで信長にいわれていた丹羽長秀は、信澄を襲撃。信澄は防戦するも丹羽家の家臣、上田重安に討ち取られてしまいました。
さらに、信孝の命令により、信澄の首は謀叛人として堺の町にて晒し者にされるという辱めを受けたのでした。享年は27頃と伝わります。
兄・信長を殺そうとした謀叛人の子どもとして生まれ、織田家の家中で重要な役割を果たすも、次は信長を殺した義理の父の謀叛により疑いをかけられ、最期は自身が「謀叛人」となり殺された信澄。
本当に裏切りだったのか、不幸な濡れ衣だったのか。
『蓮成院記録』には信澄が殺されたことについて「光秀の縁者だったためか、あるいは謀叛に加担したためかは不明」としています。その一方で、『家忠日記』では「光秀と信澄が組んで謀叛を起こした」と記されているそう。
父の謀叛のときは幼子だった信澄が大人になるまで父を殺害した信長を恨み続けていたために、光秀と組んだ……かどうかは不明です。
もし、偏見からくる濡れ衣だとしたら。戦国の世のならいとはいえども、あまりにも不運で悲劇的な生涯でした。
キリスト教と仏教で評価が分かれすぎる信澄
信澄に関しての評価は、再反対に分かれているのも興味深いところです。
宣教師、ルイス・フロイスは「信澄は異常なほど残酷で、皆が彼の死を望んでいた」と書いており、同じく『耶蘇会報』でも「信澄は甚だしく勇敢だが惨酷」と評しています。
一方、信澄を殺した信孝はキリスト教に造詣が深かったために、宣教師に高く評価されました。フロイスは、「三七殿(信孝)は勇気と信用を獲得、ただちに河内国のあらゆる有力者たちは彼を訪れ、主君として認めるに至った」とも書いているそうです。
ところが、奈良興福寺の多聞院英俊は信澄のことを「一段の逸物」というかなりの高評価をし、その死を惜しんでいます。
これの真逆の評価は、キリスト教の視点からみるとそぐわない行為をしたため評価は厳く、仏教の観点からみると信澄は立派な人物だったので評価が分かれたと推察されているようです。
織田信孝。「太平記拾遺 神戸侍従信孝(落合芳幾作)」wiki
子孫は幕末まで生きながらえた信澄の長男・織田昌澄は藤堂高虎の斡旋により、豊臣秀吉、その死後は豊臣秀頼に仕えます。大阪の陣では徳川軍に降伏し自害を図りますが、高虎のとりなしもあって助命されました。
その際、出家するも、徳川秀忠に旗本として召し出され還俗。旗本として2,000石を与えられ、子孫は残し幕末まで続きました。
信澄の弟・織田信糺は元々信長の次男・織田信雄に仕えていたためか、お咎めはなく、後に蜂須賀家に仕え家光の時代まで生きました。
もう一人の弟・織田信兼は織田信孝に仕えており、信孝が豊臣秀吉に攻められて自害するまで仕え続けました。
因縁の、織田信澄(緒形敦)と織田信孝(結木滉星)の関係は、「豊臣兄弟!」ではどのように描かれていくのでしょうか。運命に翻弄された織田の若者たちの行く末を見守りたいと思います。
※第19話『過去からの刺客』関連記事:
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