朝ドラ「風、薫る」蘭方医から日本初の医学博士に!院長・多田重太郎のモデルとされる三宅秀の生涯

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朝ドラ「風、薫る」蘭方医から日本初の医学博士に!院長・多田重太郎のモデルとされる三宅秀の生涯

朝ドラ「風、薫る」で帝都医大病院の院長を務める多田重太郎(筒井道隆)には、モデルとされる人物がいます。モデルの一人と考えられるのが、幕末から昭和前期を生きた医師で帝国大学医科大学初代医科大学長の三宅秀(みやけひいず)という人物。

三宅秀は、江戸の代々続く医家に生まれ、若い頃から蘭学、英学、医学を学びます。

しかし、幕末から明治維新へと時代は大きく動き、医学教育も旧来の蘭方医学から、ドイツ医学を中心とする近代医学へと再編されていきました。

秀は語学力、医学知識、教育力を活かし、日本の近代医学教育を支える道を選ぶこととなります。しかし、医学制度が整い始めた時代は、同時に西洋医学をどう日本に根づかせるかをめぐる苦闘の時代でもありました。

三宅秀の生涯について見ていきましょう。

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帝都大学附属病院院長・多田重太郎。彼のモデルの一人が三宅秀である。

※本記事では登場人物のモデルとされる実在人物を紹介していますが、ドラマ上の人物設定や物語展開は創作を含むため、実在人物の生涯・経歴とは異なる場合があります。

蘭方医の家系に生まれ、西洋医学を志す

嘉永元(1848)年、三宅秀は江戸本所で、蘭方医・三宅艮斎(みやけ・ごんさい)の長男として生を受けました。幼名は復一といいます。

父・艮斎は、安政5(1858)年に設けられたお玉ヶ池種痘所の創立に関わった有力な蘭方医の1人でした。

お玉ヶ池種痘所は、のちの東京大学医学部につながる施設とされています。いわば三宅家は、まさに近世医学と近代医学の繋ぎ目にある家出した。

安政5(1858)年、秀は川島元成に入門して蘭学を学び始めます。

当時の医学といえば蘭方医学か漢方医学であり、蘭学の知識を身につけることは西洋の知識を身につける入り口でした。

この西洋の知識との出会いが、やがて秀を広い世界へと誘います。

文久3(1863)年、秀は幕府が派遣する遣欧使節団に随行して渡欧。自分の目でヨーロッパを眼にする機会に恵まれます。

最新の技術や学問に触れた秀は、先進国の賑わいに大いに触発されました。

帰国後、秀は英学を学ぶため、横浜でヘボンに入門。さらにウェッドルから西洋医学を学んでいます。英語と医学を同時に身につけたことは、のちに外国医学を日本へ導入するうえで大きな力になりました。

慶応3(1867)年、秀は加賀藩の藩校・壮猶館で、英書翻訳や英学教授にも従事。最新知識を持つ学者として周囲に認識されていました。

しかし時代は大きく動き、それは秀の環境を変えていきます。

慶応3(1867)年10月、将軍・徳川慶喜大政奉還を実行。翌慶応4(1868)年の明治新政府成立により、幕府の医学所や教育機関は新政府のもとに組み込まれていきました。

医学は、藩や個人の学問から、国家が制度として整えるものへ変わっていったのです。

宣教師・ヘボン。医師でもあり、横浜で塾を開いていた。

明治の医学を再編を主導!日本最初の医学博士となる

新しい時代となっても、秀が目指すべきものは変わりませんでした。

明治3(1870)年、三宅秀は大学に出仕。大学東校(東京大学の前身組織)で病理学を教え、中助教、大助教、文部少教授などを経て、医学教育の中心に立っていきます。

秀自身は、専門分野が広い人物でした。専攻分野として病理学の他に医史学、裁判医学、衛生行政にも携わっています。

いわば「医学の知を社会制度へ広げた人物」でもありました。

また、明治医学は秀によってドイツ医学を軸に再編されたともいえます。

大学東校では翌明治4(1871)年以降、ドイツ人軍医ミュルレルホフマンの建議によって、教課の再編や予科課程の充実など体系的な医学教育への改革が進みまました。

秀「制度改革の現場」でも活躍し、より医学を発展させるべく邁進していったのです。

明治7(1874)年には、再編された東京医学校の校長心得に就任。さらに明治9(1876)年には渡米し、万国医学会の副会長に推されたと伝わります。

当時の日本において、海外の医学界と直接つながることのできる人物は限られていました。秀は、医学者であると同時に、国際的な知識を日本へ運ぶ橋渡し役でもあったのです。

明治10(1877)年、東京開成学校東京医学校が統合され、東京大学が成立。明治14(1881)年には、秀は東京大学医学部長に就任しました。

明治19(1886)年、帝国大学令により、東京大学医学部は帝国大学医科大学に改組。このとき、秀は初代医科大学長となります。

これは、日本の近代医学教育が国家制度として整えられていく中で、秀が中心的な位置にいたことを示しています。

明治21(1888)年、秀は医学博士の学位を取得。池田謙斎、橋本綱常、高木兼寛、大沢謙二らと並び、日本最初の医学博士の1人となりました。

これは秀自身が、単なる教育行政の人物ではなく、近代日本の医学界そのものを代表する存在だったことを物語ります。

明治24(1891)年には貴族院勅選議員に選出。明治36(1903)年には東京大学において最初期の名誉教授となりました。

医師、医学者、教育者、そして政治の場にも関わる人物として、秀の活動範囲は大きく広がっていったのです。

昭和13(1938)年3月16日、三宅秀は世を去りました。享年91。幕末、明治、大正、昭和を生き、近代医学教育の基礎づくりに関わり続けた生涯でした。

もし三宅秀を多田重太郎のモデル候補として見るなら、その人物像は、ただの病院長ではありません。西洋医学を学び、日本の医学教育を制度として整え、医師を育てる側に立った人物です。

三宅秀の生涯は、江戸の蘭方医の世界から、近代国家の医学教育へと向かう時代に、医学と教育の両面で後進を育て、多くの人々を救った歩みでした。

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